第2話 私の妻は少し可愛すぎる
目の前に立つ女性――セリスティア・ヴィアーナ。
彼女は俺、リンヴァルトの妻である。
そう、俺は「普通の人間として暮らす」ために結婚もした。
あくまで計画の一環だ。……少なくとも最初は。
ヴィアーナは、美しく、安定した仕事を持つ教会の聖職者。
人間界に戻ったばかりの頃、帝国は難民管理を厳しくしていた。
俺がオーレンス町に流れ着いた時、彼女は家族からの結婚催促と、仕事の重圧の二重苦で精神的に追い詰められていた。
その結果――川に身を投げようとしていた彼女を、俺が助け上げることになった。
「助かった……もう誰とも関わらなくていいと思ったのに」
「……じゃあ結婚でもするか?」
「……え?」
まさかの流れで、その場で結婚成立。
いや、俺もびっくりした。
でも、この結婚が俺にとって“救い”でもあったのだ。
帝国の正式な住民身分を得るには、保証人が必要だった。
それが聖職者のヴィアーナだったおかげで、俺は“ただの人間”として帝国に溶け込むことができた。
代償として、結婚生活の3年間は「帝国住民審査期間」としてロタイ近郊に留まらなければならない。
(……まあ、悪くない契約だ。俺も居場所を得られたし、彼女も結婚催促から逃れられたしな)
「たまたま仕事が一段落したから戻ってきただけよ。あなたの貴族の夢を邪魔でもしたかしら?」
俺の手を払いのけ、冷たい口調で答えるヴィアーナ。
その金色の瞳には、どこか近寄りがたい冷たさが漂っていた。
「あなたの帝国の住民身分はまだ観察期間中なの。何かおかしなことをしたら取り消されるわよ、わかる?」
(はいはい、監視ご苦労さまです、奥さん)
慣れっこの俺は肩をすくめ、両手を広げて返す。
「だから俺が考えてるのは“離婚後の未来”なんだよ」
「それに、もっと帰ってきてくれたら、俺も退屈しないんだけどな。最後に会ったの、20日前だろ?」
妻ヴィアーナの仕事は、教会の後始末担当だ。
異端や悪魔の侵入があれば、審判騎士たちが片をつける。
そのあと、現場に出て処理をするのが彼女の役目。
最近は戦争と邪神教団の騒ぎで仕事が山積み。
半月以上の出張も珍しくなく、彼女の負担は尋常じゃない。
(……あの“無能教皇”のせいだな。俺が交渉の場で部下を潰したのは覚えてるが、人手不足もほどがあるだろ)
「稼ぐために忙しいだけよ。断れないの」
彼女はそう言って、少し不自然に顔をそむける。
その表情は依然として神聖で誇り高く、まるで氷の女神のようだった。
(……いや、冷たいにもほどがあるだろ。俺は氷漬けの夫か?)
「だったら俺が外で働いて、少しでも手伝ってやるよ」
考えるより早く口が動いていた。
だが、即座に鋭い声が返ってきた。
「ダメ!」
「ちょっとロタイで安定した仕事を探すだけだって。あんたが帰るとき、街を通るんだから問題な――」
「ダメなものはダメ!」
(……おい、この女、聞く耳ゼロかよ)
俺は思わず彼女の顔を掴む。
だが彼女は眉をひそめ、俺の手を払いのけ――逆に俺の襟首を掴んで強引に引き寄せた。
唇が触れ合う。
柔らかな感触と、果実のような甘さが広がった。
およそ30秒。
ようやく息苦しさを感じたのか、彼女は半歩下がって冷静を装う。
「これは最近家にいなかった埋め合わせよ」
「最後に言うわ。お金を稼ぐのは私の仕事。あなたは家にいなさい……これが結婚の約束だったでしょう?」
(……はい、確かに言ったな。契約結婚、恐るべし)
要するに、俺は“専業夫”。
彼女が稼ぎ、俺は家で待つ。
他人から見れば夢のように聞こえるかもしれない。
が、現実は違う。
ただ寝て、茶を飲んで、新聞を読む生活。
やってみろ。すぐに堕落する。
(俺は一度も「楽しい」と思ったことがない。これがニート地獄ってやつか……!)
「それなら、少し約束を変え――」
「黙って。私と家に帰るわよ」
問答無用で手を引かれる。
(……くそ、俺の意見、ガン無視かよ!)
心の中で不満を垂れ流しながらも、俺は家へと連れ戻された。
二人が暮らしているのは、町の中心にある二階建ての家。
小さな庭付きで、家具も豪華。
「まあ、悪くないわね」
ヴィアーナは冷淡に室内を見回し、整頓された家具や食卓を確認して満足げにうなずいた。
……が。
「このベッドは何? 片付けてないの?」
「ついさっき昼寝したばかりだって」
(まるで姑のチェックだな……!)
彼女は鼻をひそめつつも、他の女の痕跡がないことを確かめると、そのまま欠伸をして部屋へ。
「夕食まで邪魔しないで」
ばたん、とドアを閉めた。
(……おい、この女! 20日ぶりに帰ってきてこの態度か!?)
ときには恥ずかしげもなく甘えてくるくせに、今日は冷たすぎる。
(女心、理解不能……討伐隊の戦略を考えるほうが簡単だ)
「契約が終わったら、絶対この女を捨ててやる……!」
そう毒づきながら、俺は買ってきた食材をキッチンに運んだ。
「夕飯くらい作ってやるか……見てろよ、後で後悔させてやる」
そのころ。
部屋に入ったヴィアーナは無表情で上着を脱ぎ、乱れたベッドに倒れ込む。
鼻腔に馴染んだ香りが広がり、思わず心が緩んだ。
(……やっと休める)
教会の仕事は山積みだ。
邪神、魔族、内部腐敗。
全力を尽くしても一日しか休めない。
それでも。
――ここでリンヴァルトが昼寝していた。
その事実だけが、不思議と胸を温める。
ヴィアーナは思わず体をひっくり返し、顔を布団に埋めて深く息を吸い込んだ。
(……バカ。ほんとに退屈だったのね)