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オセロー

作者: 中山俊文

「君のことだから、演奏会用序曲『オセロー』という曲をもちろん知っていると思います。君の大好きなドヴォルジャークの作品ですからね。長大な交響曲などと違って、これは十三分くらいのオーケストラ曲ですが、音楽の美しさとはこのことかと思うほどです。いまの僕にはこの曲ほど心に響いてくる音楽はないのです。よく晴れた秋の午後など、西に傾いていく陽の光をいっぱいに受けた風景を、窓から眺めながら聞いていると、時間とともに微妙に色を変えていく空が、雲の一切れが、風に揺れる枯れ草が、太陽の光を受けて光るすっかり葉の落ちた木の幹が、そしてねぐらに帰り遅れたカラスが一羽風景の中を横切って行くのが・・・そう、それらの全てがこの音楽に見事に調和するのです。僕の心は、その響きが送り込んでくる風のようなものを感じて震えます。

実はこの曲を聞いているとき、僕はある人の死を思い浮かべてしまうのです」


わたしが、高校以来の親友の永瀬からこのような手紙を受取ったのは、彼が亡くなる前の年の秋だった。わたしはその手紙の最後の部分が気になっていたが、何か返事を書こうと思いながらついときが過ぎてしまって、返事を書く前に、彼の訃報を受取ることになってしまった。

彼の死と手紙、そして『オセロー』という音楽のことがそれ以来わたしの脳裏から離れない。

わたしは昔からこの曲を知っていたし、いい曲だとは思っていたが、それほど特別な感情を抱いてはいなかった。彼がいうように、わたしはドヴォルジャークの音楽が好きだが、むしろ『オセロー』以外の曲に惹かれるものが多かった。しかし、彼から手紙を貰ったときにあらためて聞き、さらに彼の死をきっかけに繰り返し聞くうちに、『オセロー』はわたしにとっても特別な音楽になっていった。


永瀬が亡くなったことは、海外の出張先に家内が電話で知らせてきて知った。そのときわたしは学会に出席していてすぐに帰国することも出来ず、葬儀には家内に出てもらった。わたしは学会以外にも予定していたことを済ませて、約一か月後に帰国してからお悔やみに行った。

そのとき永瀬の奥さんが、わたしだけにといって打ち明けたことにわたしは言葉を失ってしまった。

奥さんによると、永瀬は前年の秋ごろからなにもせずにぼんやりしていることが多くなり、ヘッドホーンをつけて音楽を聞くだけの生活が続いていたそうである。彼は、いくつになってもあくせく働いているわたしと違って、六十の停年を待つようにして現役から退き、何か書き物をしたいといっていた。

「永瀬が聞いていたのは、もしかしたら『オセロー』という曲じゃないですか」

わたしは手紙のことを思い出して訊ねてみた。

「そうかもしれません。主人が亡くなったあとプレイヤーのトレイにはたしかその曲のディスクが入れたままになっていましたから。主人はいつもディスクはきちんと整理していたので、それがプレイヤーに入れたままというのはちょっと意外でした。入れ替えずにそればかり聞いていたのかもしれません」

「やっぱりそうでしたか」

「どうして、主人が聞いていた曲なんかをご存知なのですか」

そばで一緒に暮らしていたものが知らないことを、遠くに住んでいるわたしが知っていたのを奥さんは不思議に思ったのだろう。

「去年の秋でしたか、わたしは永瀬から手紙を貰ったのですよ。それに『オセロー』に魅せられてそればかり聞いているというようなことが書いてありましたから」

わたしは、手紙の最後の部分については奥さんに話さなかった。

「そんなことがあったのですか。わたくしには何を聞いているかなんて、話してはくれませんでした。ただ、ヘッドホーンをつけてぼんやりと窓の外を見ながら聞いていましたから。そういえば、そんなときの主人は何となく寂しそうに見えました。でも、いまだからそんな風に思うのかもしれません。なにしろ定年後の主人は、いつも長い時間ひとりで音楽を聞いていましたから・・・ですから、そのときは特にそんな見方をしなかったような気がします。何か音楽について書くために聞いているのだろうくらいにしか思いませんでした」

「話の腰を折ってしまいましたが、亡くなったときのことでしたね」

「ええ・・・」

奥さんはしばらく間を置いてから、言いにくい言葉を押し出すようにして、

「自殺でした」

それは聞き取りにくいほど小さな声だった。二人とも長い時間黙ったままでいた。奥さんはうつむいていたが、ふっとため息を漏らしてから窓の外に眼をやった。その目には涙が溜まっているようにみえた。わたしも窓の外を見た。そこには、永瀬が『オセロー』を聞きながら眺めたと書いていた風景があった。季節は移っていたが、間違いなく彼が手紙に書いていた風景である。わたしは、突き上げてくるものに堪えることができず、ふいに涙があふれでてしまった。そして嗚咽の声を必死で抑えようとした。

それにしても、葬儀に出席した家内は何もいっていなかった。家内も自殺などとは聞かされなかったのだろうか。

わたしは何か自分の方から言葉を発しなければならないような気がして、ありきたりとは思ったが、

「遺書みたいなものはあったのですか」

と訊いた。永瀬はロマンティックなところのある男ではあったが、よほどの理由でもないかぎり自殺したりするはずがない。しかし、あの手紙の最後のことが何か関係あるのだろうか。

「ええ、主人の引き出しの中に・・・私物の処分のことなど・・・」

奥さんは、しばらく言葉を切ってから、

「詳しくは書いてないのですが、病気に罹っているとありました。たしかに最後のころはずいぶんと痩せていました。心配して聞いても、『運動も何もしない老人はこんなものさ』といって、取り合いませんでした。ご存知のように、もともと痩せた人でしたし・・・でもそれが原因だったのでしょうか・・・それからわたくしに、残りの人生を充実して暮らして欲しいと・・・」

奥さんは、とぎれとぎれにそこまでいうと、こみ上げてくるもので言葉をつまらせた。しかし間をおいてから、気を取り直したように、

「あれは天気のいい夕方でした。ちょっと散歩をしてくるといって普段着のまま出かけて、そのまま帰ってこなかったのです。

わたしくしが、『夕方は寒くなるから、ジャンパーを着て行った方がいいわよ』といったら、主人が『うん』と答えて、洋服掛けから橙色と緑の着古したジャンパーを取り出し、それを手に持って出かけていきました。それがわたくしたちの最後の会話でした」

奥さんは泣かなかったが、そのときのようすを思い浮かべているようであった。それからまた、話の続きを始めた。

「暗くなっても帰ってこないので、わたくしは通りに出て見たり、主人がときどき話をしている近くの知り合いに電話したりしましたがわかりませんでした。私の様子を察して、近所の人たちが一緒に探してくれました。とうとう町の駐在さんまで、主人が散歩していたと思われるコースをくまなく探してくれました。わたくしは、連絡が受けられるように家で待っていることになりました。急にものものしい雰囲気になったのをよく覚えています。

しばらくして新たなパトカーが来たのか窓の外を、赤色灯をちらちらさせながら通り過ぎるのが見えました。サイレンは鳴らしていませんでした。

夜の九時近くなって、裏山に入っていく辺りの林の中で、首を吊っている主人が発見されました。家から歩いて三十分もかからない場所で、わたくしも主人と散歩したことのある道から少し入ったところでした。現場から迎えに来てくれたお向かいのご主人の車で、わたくしが駆けつけたときには、主人はもう木から下ろされて、毛布がかけられていました。その場には、いつ来たのか救急車も止まっていました。駐在さん以外の警察官の人や救急車の人、それに近所の人たちがたくさん集まっていました。『ご主人かどうか、確認していただけますか』と駐在さんがいったとき、わたくしは主人ではないことを願いましたが、間違いありませんでした。主人は出かけるときに手に持っていたジャンパーを着ていました」

奥さんは一呼吸おいて、

「そのとき主人のそばに引越し用の白いロープがあるのに気がつきました。主人が散歩に行くといったとき、すでにポケットにはそのロープが用意されていたのだと思います」

奥さんは、淡々と話した。むしろわたしの方が動揺して、体の震えが止まらなかった。わたしは、夜の林の中で懐中電灯に照らし出された永瀬の顔を想像した。きっとその目は堅く閉じられ、見たこともないような顔色になっていたことだろう。もしかしたら、もっと異常な姿だったかもしれない。奥さんはいったいどんな気持ちで永瀬の顔を確認したのだろうか。しかし、いま奥さんは、夫の死の状況をわたしに話すことで、張り詰めた心の内圧を下げているようにも見えた。

 

それ以来わたしは沈みがちな気持ちが続いて、なかなか仕事にも集中できないでいたが、それでも少しずつ日常の忙しさにまぎれて、普段の生活にもどっていった。

しかし、それからさらに半年近く経ったころ、永瀬の奥さんから分厚い手紙が届いた。手紙が分厚いのは、封筒に入った分厚い手紙のようなものが同封されていたからで、奥さんの文面はただ便箋一枚に書かれたメモだった。それには、

「主人のものを整理していたらあなた様宛の手紙のようなものが出てきたので、そのまま同封します」

とだけ書かれている。同封されていた白い封筒の表には、すみのほうにわたしの名前が鉛筆で走り書きしてあった。封筒はしっかりと糊付けされていたが、住所も書いてないことから、すぐに投函するつもりではなかったのかもしれない。

 便箋五枚ほどに手書きの小さな文字がぎっしり詰まっていた。それには、最近の自分の健康状態が思わしくないこと、そのことに関して自分にはある考えがあること。そしてそう考えるに至った理由などが詳しく書いてあった。

 永瀬がこの手紙を書いたのは、手紙の最後にある日付けから推測すると、死の半年くらい前のことになる。先の『オセローばかり聞いている』という、簡単な手紙の日付けを調べると、これと同じになっている。つまり永瀬は、この長い手紙を書いたが、出すのをためらって、ごくあっさりとした内容のものだけを書いて投函したのかもしれない。

手紙には、誰にもいってないが健康状態は非常によくないとあった。そして、自分の予想では内臓のどこか、それも広い範囲にわたって癌になっていると思うというのである。医者には行かず、本屋などで癌に関する本を立ち読みして得た情報によると間違いないと思うと書いてあった。当然ながら相当の疼痛に苦しんだようなのだが、一年位前に罹った帯状疱疹のときに病院で貰った鎮痛剤や、歯医者でもらった痛み止めがたくさん余っていたので、それを飲んで我慢したらしい。そんなもので耐えられるものなのだろうか。また、家族に気付かれないようにするために、痛みが襲ってくると、書斎に入ってヘッドホーンの音量を上げて音楽を聞いたのだそうだ。

 何故医者に行かないのかについても書かれていた。

その半年以上前に高校時代の同窓会があり、永瀬はそれに出席したようだ。その同窓会のことはわたしも知っていたが、仕事の都合で出席できなかった。というより、わたしは高校の同窓会には、遠隔地にいたこともあってほとんど出たことはなかった。永瀬はいつも出ていたのだろうか。とにかくその同窓会で、永瀬が山崎という女性から聞いた話が書かれている。彼女は、わたしたちの同級生で、永瀬は彼女のことを好きだったのをわたしも知っている。今のように高校生同士が誰でもおおっぴらに付き合うという時代ではなかったので、真面目学生だった永瀬は気持ちを自分の中にしまったままであった。永瀬の彼女への恋は、なんの発展もせずそれぞれ別の人生を歩んだのだった。半世紀近くも遠い昔の話である。

彼女は、自分は癌に罹っていてもう長くないらしいのだが、入院などせずに、つまりただ生きながらえるような方策は一切拒否して、生きている限り最後まで絵を描きつづけたい。描いている最中にキャンバスの上に倒れこんで死ねたら本望だと、彼に話したのだそうだ。そのとき彼女は、ある弦楽四重奏団を主宰して活動していた女性ヴァイオリニストの話をしたそうだ。ヴァイオリニストはある地方公演が終わったその夜ホテルで倒れ、その数日後に亡くなったというのである。山崎は、自分もそのような最後を迎えたいといったのだそうだ。そのエピソードはわたしも聞いたことがある。たしかそのヴァイオリニストも自分が癌に罹っていることは知っていて、治療よりも演奏活動を続けることを選んだのだった。

永瀬は、現実に重い病に罹っているという山崎本人から聞いた話は、有名人のエピソードよりもはるかに衝撃的で、淡々と話す態度に感銘さえ受けたと書いている。山崎が絵を描いていたというのをわたしは知らなかったし、プロとして書いていたのかどうかも知らない。とにかく、永瀬の文面では彼女にとって絵を描くことはライフワークのようなものだったようだ。そういえば、高校時代も山崎という名前だったから、もしかしたら結婚しなかったのかもしれない。そして絵に打ち込んでいたのだろうか。

実は、それだけでなく山崎は、永瀬に意外なことを漏らしたのだそうだ。彼女は、永瀬に耳打ちするように、

『もし無事あっちに行けたら、待っていますね。急ぐことはないけど忘れずにわたしを訪ねてくださいね』

といったのだそうだ。先にも書いたように、永瀬は確かに山崎に憧れていたし、高校のころは、いつもわたしにそのことをいっていたが、彼女に告白したというようなことは聞いていない。

 おそらく何年に一度か開かれていたはずの同窓会で、永瀬と彼女は顔を合わせていて、昔話に花を咲かせていたことだろう。そんな中で、同級生たちから、『お前、山崎が好きだったよな』などと冗談交じりの話題が盛り上がっていたのかもしれない。しかし永瀬自身、高校のころのことを忘れてはいないが、いまなお彼女に憧れ続けているわけではないと手紙の中で明言している。それでも彼女の耳打ちは永瀬の気持ちに微妙な変化をもたらしたことも確かだったようだ。彼女が待っていてくれると思うと、死ぬことに対して不安はまったくないとも書いているのである。

その同窓会の時点では、永瀬はまだ自分の体調の異変に気付いていなかったようだが、おかしいと感じ出したのはそれから間もなくだったようだ。

同窓会から四か月くらいしたとき、永瀬は山崎の死を知った。永瀬はその葬儀に出たそうだ。いかにも山崎らしい「お別れの会」だったと永瀬は書いている。そして、その会の間中音量を落として流れていたのが『オセロー』だったというのだ。山崎本人が生前に、自分の告別式にはこの曲をと周囲の誰かにいっていたに違いないと永瀬は考えたようだ。式場のアイデアだったらおそらくバッハのアリアか何かだろうと、音楽通の永瀬らしい分析も書き添えられている。

そのとき、永瀬は自分もそのように生き、そのように死にたいと強く思ったのだそうだ。永瀬にとって、山崎の絵に当たるようなものが何なのか、本人が特にそれについて触れていないのでよくわからないが、わたしの想像では音楽について書くことではなかったかと思っている。永瀬とはよく音楽論を戦わせたし、彼は作曲家や演奏家についてずいぶん書きためていたようである。

いずれにしてもこの手紙によって、永瀬がどのように人生の幕引きをしようとしていたのかがわかった。わたしは永瀬とよく、死ぬ前日まで普段どおりに暮らして、次の朝起きてこなかったという具合に死ねたら理想的だとか、延命的な治療などやって欲しくないから、元気なうちに家族にはしっかり頼んでおこうなどと話したことがあるので、永瀬がそう考えることには、特に驚かなかったし、わたしも同じ考えだ。ただ、現実に病の苦しみに襲われたときに、そのような考え方を実践できるかどうかは、わたし自身必ずしも自信はないので、永瀬の実践はわたしの胸にずりと重いものがあった。そして永瀬が、奥さんに見送られて最後の散歩に出かけるというときの心境を想像すると、あらためて胸が締め付けられるのあった。


 わたしは、このような内容の手紙のことを、奥さんにどう話したらいいのか迷った。山崎のことも、決して夫婦にとって深刻な内容というほどのものではないと思うが、奥さんにとっては快くはないだろう。それよりも、夫が文字通り死の苦しみを、永年連れ添った自分に何一つ話さずに、隠れるように死んでいったことは、大きなショックに違いない。しかし別の考え方をすれば、奥さんはすでに自殺の事実は知っているので、それ以上大きなショックはないかもしれないとも考えられる。むしろ永瀬の死生観を知ることは、自殺の理由がわからないままというよりもずっといいかも知れない。

 わたしは奥さんに、慎重に言葉を選びながら、死を前にした永瀬がわたしに当てて書いた文章の内容を説明する手紙を書いた。間もなく、

「お手紙によって、主人の考え方が理解できました。最後の苦しみを分かち合ってもらえなかったことは残念ですが、主人がそれを最もいいと考えたのですから、やむをえないと思います。おかげさまで、気持ちが楽になってきました。『自分がいなくなっても、充実して楽しい人生を送りなさい』という主人のわたくしへの言葉をよくかみしめながら生きていきたいと思います」

という内容の返事を貰った。わたしはホッとした。


わたしは、ふたたび普段の忙しい生活に戻っていったが、それ以来『オセロー』をよく聞くようになった。永瀬が最後のころこれを聞いていたのは、押し寄せる疼痛を和らげるためではなく、天国で待っているという彼女のイメージを『オセロー』の音楽の中に追い求めたような気がしてくるのだった。

 『オセロー』はいうまでもなくシェイクスピアの四大悲劇の一つである。武将オセローとその妻をめぐる疑惑と誤解と死のドラマで、最後は妻を手にかけたオセローも自刃するというどろどろした悲劇である。しかし、その物語に霊感を受けて作曲したドヴォルジャークの音楽の響きはあまりにも美しい。作曲者は、この物語の血なまぐさい場面ではなく、愛と不安そして後悔など主人公の心の動きを音に映そうとしたのだろうか。


あれから五年、わたしはしばらく聞かなくなっていた『オセロー』をまた聞いた。

こんどは、わたしがあのときの永瀬と似たような立場で聞くことになってしまった。といってもわたしの場合は、本屋での立ち読みではなく、勤め先の集団検診で直腸癌の疑いがかけられたのだ。病院で詳しい検査を受けるようにとの指示に、深く考えもしないで従ったのが運のつきだった。癌は直腸だけでなく他の臓器への転移も疑われた。かなり進んでいるとのことだった。治療に関していろいろな可能性を説明されたが、いずれも入院による闘病生活が条件であった。健康診断の結果が出る日まで普段どおりの生活をしていた人間が、急に入院生活が必要だといわれ、しかも治るかどうかはこれからの治療の結果待ちだというのだ。病気というものはこのようにある日突然覆いかぶさってくるものらしい。これまでのわたしは、入院はおろか大きな病気に罹ったこともなかった。

永瀬の場合と違って、わたしの癌は自分ひとりの秘密ではなく、家族はもちろん、職場でも公然のこととなった。

わたしは、普段どおりに自分のやりたいことをしながら最後の日を迎えたいと思っていたのだが、周囲がそれを許してくれない。治療の効果がどうであれ、医者が最善という方法に従うことになってしまった。医者が最善というのは、当人であるわたしが死までの期間をどのように過ごすかというファクターはあまり考慮されていない。医者も家族も、わたしの病気を知ってしまった以上、何も治療をしないというような選択肢をとることはできないのだ。

体調の異常を隠し通した永瀬は別としても、山崎やエピソードのヴァイオリニストがあのような最後を迎えることをどうやって周囲に納得させたのか知りたいものだ。


わたしは癌すなわち死と結び付けてしまっていたが、医者はそうは考えていなようであった。治療方針はすぐに出された。わたしは手術を受け、以後の人生は人工肛門の生活を送ることになるらしい。

手術はわたしの想像よりもはるかにあっさりと終わった。むしろそのあとの抗がん剤の影響が苦しかった。猛烈な吐き気を伴う副作用に耐えることになる。もともと少なくなっていたとはいえ頭髪はすっかり抜け落ちてしまった。病室の天井か、遠くの景色と空しか見えない窓の外を漠然と眺めながら、波状的におそってくる不快感に身を晒す毎日である。多少気分がいいときに音楽を聞くか、新聞を読むかしたが、長く続ける気には到底なれなかった。

入院が決まったときには、パソコンを持ち込んで何か研究してきたことを書こうなどと考えたが、いざ入院のドサクサや検査ラッシュ、手術、副作用と続き、そんな呑気な入院生活ではなかった。

いまわたしは、かねてから理想と思ってきた、自分の死に方についての考えを実践することができないばかりか、それまでは想像していなかった方向に運ばれている。

そんな中でも、わたしは少しずつ落ち着いてきて、パソコンを持ってきてもらった。はじめはこれまでの研究生活について随想でも書こうかと思ったのだが、いざパソコンに向かうとそんな気分にもなれず、今回の入院にまつわることをだらだらと書くことになった。

やがて退院の時期が云々されるようになった。とりあえず人工肛門での普通の生活が出来るようになるらしい。こうなってみると、どのように自分の幕引きをするのかと大げさに思いつめたことが恥ずかしいような気がする。

わたしは、病の成り行きに任せて永瀬や山崎のようにすればよかったのだろうか、それとも治療によってもたらされたさらなる人生を送れることをありがたいと思うべきなのだろうか。いずれにしてもわたしは神に与えられた最初の死ぬチャンスを逃したことになる。

退院が近づいて、体調は安定してきているが、集団検診で癌といわれたとき続けざまに聞いたが、それ以降『オセロー』をまったく聞いていない。

        (完)


どのように死を迎えるかは、全ての人にかかわりのある難しい問題です。これを読んだ方も一緒の考えてください。

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