筋肉変態、通勤路に現る。~会社帰りにボディビルポーズ決めないでください~
その夜、空気はまるでタンスの奥で何年も眠っていた毛布のように、重く、じっとりと湿っていた。
都会のネオンは眠らず、それに文句も言わずに今日も黙って照らしている。
そんな中、三十路OL・杉野ことみは、残業によりほぼ日付の変わった帰宅途中、駅からの夜道を一人歩いていた。
「ったく……もうパワポの直し三回目って何? 資料、昨日と同じじゃん! いや、むしろ悪化してるじゃん……」
ぶつぶつと文句を垂れながら、彼女はコンビニの袋をぶら下げ、湿気にうねった前髪を片手で直す。
星がやけにくっきりと瞬いていた。空気が澄んでいるからか、それとも世の中が荒んでいて星くらいしか頼りにならないからかは知らない。ただ、そんな中だった。
ふと、彼女の目に映ったのは、前方の街灯の下、明らかにこの猛暑にそぐわない“長い黒いコート”を身にまとった人影だった。
「え……?」
と、一瞬立ち止まったときだった。
バサッ
突然、黒コートの人物がコートを翻し、宙を舞うように脱ぎ捨てた。ことみは思わず目を見張った。
「……変態!!」
叫びたかったが、驚きすぎて喉がカラカラで声にならない。
そこには全身を黄金色に日焼けさせた中年の男が、ビキニパンツ一丁で立っていた。筋肉隆々、つやつやした肌、まるで肉の彫刻。
そして次の瞬間——男はポージングを始めたのだ。
片膝をつき、胸筋を張り、左右に肩を広げる。「ダブルバイセップス」! 続いては背中を向けて腰を落とし、「クリスマスツリー」!
ことみは唖然とした。だが、なぜか冷静になっていた。そして、なぜか口からこう漏れた。
「……肩にメロン……腹筋、板チョコ……」
男はニヤリと笑い、「ありがとう」と呟いて、さっそうと走り去って行った。見送りながら、ことみは思った。
「……何だったの今の」
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次の日も、ことみは帰りが遅くなった。会社の給湯室で「昨日、変な筋肉変態が現れてさぁ」と軽く話したところ、上司の桐谷がやたらと食いついてきた。
「えっ、筋肉? どんな筋肉? 肩の張りは? 三角筋の輪郭は? 大腿四頭筋は?」
「いや……そこまで詳しくは……」
「今夜、送ってくよ。危ないだろ、筋肉変態」
「それ理由になる?!」
とはいえ、送ってもらえるのはありがたい。こうして彼女は、上司の車で最寄り駅まで送られた。そしてまた、昨日と同じ街灯の下に、あの黒コートの男が立っていた。
「やっぱりいた……!」
男は彼女を見つけるやいなや、またもやコートを投げ捨てた。黄金ボディ、堂々登場!
が、今日のことみには味方がいた。
「ふむ……こいつが昨夜の筋肉変態か」
桐谷課長は、そっとネクタイを外した。と思ったらそのまま上着を脱ぎ、Yシャツを脱ぎ……上半身裸!
まるで最初から脱ぐつもりでいたような手際の良さ。もちろん筋肉は本物だった。まるでギリシャ神話から飛び出してきたような完璧な造形。
しかも——ズボンまで脱ぎ始めた!
「やめて! 変態vs変態の構図になってるよ!?」
しかしもう止まらない。
「いくぞ……フロント・ラットスプレッド!」
「ならば俺は……モスト・マスキュラー!」
闇夜の中、街灯の下で繰り広げられるポージング対決。光と影が筋肉の隆起を劇的に照らし出し、まるでバロック絵画。
ことみは、思わず叫ぶ。
「仕上がってるよ課長ー! 背中に鬼の顔ー! 腕が太すぎて見えないよー!」
謎のテンションで声援を送る自分にびっくりしたが、なぜか止められない。
2人の戦いはヒートアップし、ついには互いの腹筋を指で弾きあいながら、
「おまえのシックスパック、なかなかやるな……」
「おまえも……グルタミン効かせてるな……!」
と、奇妙な敬意と友情が芽生えていた。
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気づけば朝日が昇り始めていた。
ことみは、白々と明るくなる空を見上げながら、そっとその場を離れた。
(……付き合ってられるかっ)
夜道には、あれから変態マッチョは現れなかった。というのも、あの夜以来、コート男と課長は週三回の合同トレーニングを開始したからだ。
会社帰り、ことみがジムの前を通ると、ガラス越しに見える2人のマッチョたちがハイタッチしていた。
「いいぞ、今日の大胸筋!」「おまえのハムストリングスも神がかってるぞ!」
そう叫びながら、ポージングを交わす2人の姿。
——まるで、世界で一番平和な戦いだった。
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筋肉の前に敵なし。
でも夜道は、やっぱり明るいところを通ろう。
それが、杉野ことみが学んだ最大の教訓だった——筋肉より、大事なものがある。
(でも、筋肉もいいかもしれない)
そう思いながら、彼女は今日も帰路につく。
星の下、静かに夜が笑っていた。