トリシティ危機一髪
〈冒険僧麦焦がしにはバターかな 涙次〉
【ⅰ】
日本バイク界は、* ヤマハ トリシティ125は名車、と云ふ話題で持ち切りだつた。3輪のトライク(前2輪)であるにも関はらず、コーナリングを樂しめる構造になつてゐて、流石「コーナリングのヤマハ」だ、と云ふ噂。
結城輪は自分がそんな名車に跨つてゐる、とも氣付いてゐなかつたが、だうやらバイクライフを滿喫してゐるやうであつた。
或る日(週末であらう)ガススタンドに寄ると、「お、トライク、シビいつすね」と、スタンドのお兄さんが云ふ。このお兄さん、僕の好みだなあ、だけどヤンキー上がりは、ちよつと... とかつらつら。だがそのスタンド、輪の行き付けになつた。
* 当該シリーズ第165話參照。
【ⅱ】
「俺だつてヤンキー上がりだよ。それぐらゐ、いゝんぢやねえの?」と杵塚。杵塚は早く輪の「疑似戀人狀態」から足を洗いたく、正直なところ女とタンデムしたくつて仕方がない。輪をその「お兄さん」とくつ付けてしまへ、と目論んでゐたのである。
だがこればつかりは個人の趣味、その「お兄さん」にその氣がなければ、致し方ない。一度、着いて行つてみやう、と思つたのだつた。
【ⅲ】
杵塚、行つてみて驚いたのだが、ビンゴ! ではないか。「お兄さん」ピアスは右耳にしてゐるし、全體の所作も、所謂「お姐」つぽい。「いゝよいゝよ。輪、こりやGO!! なんぢやないの?」-「さうですかあ。でも僕、男の人にアタックの掛け方、知らないんですよ」
そんな事は杵塚だつて、当然知らない。「まあ当分このスタンドに通え。さすれば道は開ける」
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈參考にと云ふ若手のポケットにカネをねぢ込む極右なるかな 平手みき〉
【ⅳ】
ところが、この戀(?)、飛んだ邪魔者が入る。と云ふか、入つてゐたのだ、最初から。「お兄さん」は【魔】であつた。そしてスタンドでじつと待つてゐたのである。輪が來るのを。
斯く云ふ事も知らず、或る日の事、またもこのスタンドに寄つた輪、その後バイクの不調を覺えた。杵塚が見るに、ガソリンタンクに異物が入つてゐる。入れられる、としたら、ガススタンドでしか、有り得ない。杵塚、事の次第を明らかにする為、先のスタンドに赴いた。
すると、そんな店員、雇つた事はない、と責任者。大體に於いて、店に出る時には、ピアスは外すやう指導してゐる、と云ふ。
【ⅴ】
【魔】か‐ 杵塚は慄然とした。君繪と同じで、輪も、魔界垂涎の人材である事は、彼は知つてゐた。何と云ふか、カンテラの係累の中で一番、【魔】に馴染みさうなのが、輪、なのである。外濠から埋めて行かう、と云ふ作戰なのであらう。
折りしも、じろさん当直の日。杵塚は、じろさんに事の次第を打ち明けた。「何、また輪くんか! 飛んだトラブルメイカーだな彼は」‐「まあさう云はないでやつて下さいよ」‐「で、異物つてのは除去出來たのかい?」‐「さつぱりなんですよ。タンクの中身空けてみても、出て來ない」‐「むう。カンさんなら斬るかね、その『お兄さん』てのを」‐「さあ...」
【ⅵ】
【魔】を斬つてしまへば、物的トラブルは大體解決する。それが蓄積されたデータの語る事。じろさん、杵塚のバイク(アプリリア SR-GT)の後ろに乘つて、彼(「お兄さん【魔】」)のゐない筈のスタンドへ向かつた。
ところが彼はちやんと待つてゐた。「此井か。カンテラでないのがちと殘念だが」
輪は、云つてみれば囮なのであつた。カンテラ、若しくはじろさん、を呼び寄せる為の。
決着はすぐに付いた。口ほどにもなく、この「死合」、じろさんは「お兄さん【魔】」に圧勝。だうやら、他の人たちには見えてゐない、その遺骸は、じろさん・杵塚の眼前からも消えた。
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〈ロボットには梅雨は良かろう筈もなく 涙次〉
輪のトリシティは調子を戻した。だが彼の淡い憧れも消えた。「これつて、戀、だつたのかな? ぐすん」。依頼料は、例に依り、出世拂ひで、輪、杵塚から借りた。そんな一部始終。で、これにて一卷のお仕舞ひ。ぢやまた。