カノン
カノン
莉緒は飽きていた。音楽科ピアノ専攻に入学したはいいものの、課題曲はほとんど弾いたことのある曲ばかり。
この大学の音楽科のレベルが低いことは知っていたが、まさかここまでとは。
しかし、ここしか受からなかったのだから、仕方ない。
自分が恵まれている自覚はあった。
何をするにも要領がよく、よく気が回った。
容姿も愛らしく、ツインテールにフリルのたくさんついた服が似合った。
毎日、手を抜かずにメイクをし、裾の方の髪を巻いて講義に参加した。
友達は、いつまで経ってもできなかった。
莉緒はいつも1人で、ひとりぼっちで、ピアノを引き続けた。
ある日、学内オーケストラの伴奏者を募集していることを知った。
オーケストラサークルの伴奏者が急にやめてしまったので、代わりを探しているという。
いつもソロで弾いているピアノをオーケストラの伴奏で弾くのは、それなりに面白そうだと思った。
他の楽器演奏者たちと、仲良くなれるかもしれないという希望もあった。
木枯らしが吹きつけ、指先がじんと冷え始める頃だった。
莉緒は伴奏者選抜を受けることにした。
選抜と言っても形だけだ。
立候補したのは、莉緒だけなのだから。
それほどに、この大学のピアノ専攻の学生たちはやる気がないのだ。
講堂のグランドピアノは、予約制で練習に使うことが出来る。
莉緒は普段も毎日のように放課後はここでピアノを弾いていた。やはり、家や練習室より弾いていて気持ちがいい。
いつも自分の時間の2〜3分前に舞台袖で待機するようにしている。
この前は、時間ギリギリに行ったら、男性とステージの上でかち合ってしまった。
莉緒は初め、学生だと思い話しかけてしまったが、清掃員だったのだとすれ違った時にやっと気づいた。
彼は清掃員の着る水色のつなぎを着ていたからだ。
それ以来、その男性とは会っていない。
その日も舞台袖で時間になるまで待っていようと思い、早めに行った。
(あれ? リストを弾いているわ。)
ピアノ専攻の中でのトップは自分だと思っていたため、難曲を弾く男子学生に思わず目を奪われた。
真っ白いワイシャツが舞台の光を反射している。ぴんと伸びた背筋から、曲への集中度が伝わってくる。
莉緒の時間枠になっても弾くのをやめそうにない。
(どうしよう…。)
戸惑ううちに曲が変わった。
ハッヘルベルのカノンのアレンジだった。
それは見事なアレンジだった。
小学生でも弾けるような簡単さなのに、美しい旋律はそのまま残してある。
滑らかな指の動きが、音を途切れさせることなく紡いでいく。
曲が終わった時、莉緒は自然と拍手してしまっていた。
「すごく上手ですね。 ビックリしました。」
思わず、褒め言葉が口をついて出てきた。
こんな人と友達になれたら、お互い、励まし合えるのに。
(今ならこの人と、友達になれるんじゃないかしら…!)
莉緒の胸の中で期待が、遊園地で配られる風船のように膨れ上がった。
「あ、時間過ぎてました? すみません。」
男子学生は片付けを始め、あっという間に帰ってしまった。
後には莉緒だけが残された。
ひとりぼっちで立つステージ。
そこは、莉緒にはまばゆすぎて、大きすぎて…。
そして、寂しすぎた。