話が違うよね?
木剣を手に、彼は剣を振るう。
何十、何百、何千回。
決められた型に沿うように、彼はひたすらに剣を振り続けていた。
その姿を、私は見ている。
「意外ね」
「ん? 何がかな?」
「普通に努力していることよ。騎士王なんて呼ばれてもてはやされているから、てっきり天性の才能をひけらかす男だと思っていたわ」
「ひどい言われようだな」
アスノトは苦笑いをする。
彼は木剣を腰に差し、大きく深呼吸をしてから私のほうを見る。
「才能は皆が持っている。大事なのは自分の才能とどう向き合い、どう磨くかだよ。努力なくして結果は出ない。少なくとも俺はそう思っている」
「賢明な意見ね。そういうのは嫌いじゃないわ」
「へぇ、君は真面目な性格がタイプなのかな?」
「すぐに色恋につなげるところは嫌いよ」
「おっと、それは残念だ」
やれやれと首を振り、彼は私の隣に座る。
一つ分の距離を置いて。
意外に思って、私は少し驚く。
「どうかした?」
「てっきりもっと近づくと思ったわ」
「汗だくだからね。今近づいても、君に嫌われてしまいそうだから」
そう言いながら自分で持ってきていたタオルで汗を拭いている。
朝の訓練を始めて一時間と少し。
彼は休みもせず、おそらく日課であろう訓練を続けていた。
涼しい時間だけど、激しく動けば汗も流れ落ちる。
「別に、汗を汚いとは思わないわよ」
「そうなのか?」
「ええ、少なくとも努力の汗は嫌いじゃないわ」
「じゃあもっと近づいても?」
「それとこれとは話が別よ」
だから近づいてもいい、という意味ではない。
あくまで努力して流した汗は、汚いとは思わないという持論を口にしただけだ。
汗を拭き終わったタオルを椅子の背にかけ、彼は一呼吸置いてから私に言う。
「君は不思議だな。年はそう変わらない。俺よりも若いはずなのに、どこか年季のようなものを感じる時がある。年の割に達観しているというか。大人の落ち着きというのかな?」
「そうかしら? 小生意気なことを年相応に言っているだけよ」
「そうやってハッキリ物が言えることもだよ。ルストワール家でもそうだったのかい?」
「まさか。こんな態度をとっていたら毎日お仕置きよ」
ルストワール家では、弱々しくてのろまな妹を演じていた。
そうしたほうが都合がよかった。
特にお姉様は自尊心の塊だ。
自分より遥かに劣っている私の存在が近くにあると、精神的に安定する。
結果、罵声は減らないけど手を上げられたりすることはなくなる。
この立場を利用して、無難に、平和に過ごすための方法なら心得ている。
もっとも、今はその必要もなくて、何をしたところで逆効果になるだろうから、近寄らないことが一番の対策だ。
「お仕置き……ね。どんなことをされていたのか聞いても?」
「普通よ。叩かれたり、叱られたり、不出来な使用人にはそういうものなのでしょう」
「……君はそれに耐えていたのかい?」
そう尋ねた彼の表情は不満げで、少し怒っているように見えた。
私は首を傾げる。
「どうしてあなたがそんな顔をするの?」
「怒るのは誰でも、腹が立つからだよ。君は腹立たしくはなかったのかい? 同じ屋敷で暮らす家族にそんな扱いを受けて、少しも理不尽だとは思わなかったか?」
「思うわよ。けど仕方ないわ。私は本妻の子供じゃなかった。それに魔法使いとしての才能も、あの人たちはないと思っているのよ」
だから私は冷遇された。
その境遇を利用して、目立たぬように生きてきた。
ある意味では、彼らも私の人生設計に協力してくれていたようなものだ。
感謝することはないけれど、恨むことも……。
「よくないな。それは」
「え?」
「君のそれは諦めだ。今、過去、未来に対して幸福を諦めて、最低限で満足しようとしていないかい?」
「――!」
私は目を見開く。
図星だった。
誰よりも素晴らしい成果とか、世界で一番幸せとか。
そんな無理なことは望まない。
私がほしいのは、誰もが当たり前のように持っているはずの、普遍的な幸せだ。
それ以上は望まない。
より幸福なんて望めるほど、私はいい人間じゃない。
そう思っていたことを、私は見透かされた気分だ。
「達観していると言ったのは訂正しよう。君はただ、諦めがよすぎるだけだ。それはいいことじゃない。君はもっと欲張るべきだ」
「欲張る? 何に?」
彼は立ちあがる。
腰に手を当て、背を反らし、身体を伸ばして振り返る。
「自分にだよ、イレイナ」
「……」
「誰でもない、自分のことにもっと欲張ればいい。ありきたりな幸福? そんなものは俺が用意しよう。それ以上のことを君は望んでもいいんだ」
「……ふっ、そんなセリフ、よく本気で口にできるわね」
おかしくて、私は笑ってしまった。
彼の言葉に嘘はない。
本心からそう思っていると、疑う必要もなく透けているから。
「君に信用してもらいたいからね。これくらいは格好つけるさ」
彼は私に手を差し伸べる。
「そろそろ行こう。朝食の前に、父上と母上に話をしに」
「……そうね」
私は彼の手を取る。
運動したばかりで、いつもよりも温かい。
ほんのり汗で湿っている。
「気持ち悪くないかい?」
「言ったでしょ? 努力の汗は嫌いじゃない。むしろ好きなほうよ」
「その好意が、いずれ俺に向けられてくれるようになってほしい」
「それは今後のあなた次第じゃないかしら?」
私がそう言うと、彼はちょっぴり驚いたような反応を見せる。
そうして笑う。
「よかった。キッパリ否定されないってことは、可能性はちゃんとあるってことだね」
「――! ……」
「あれ? 違ったかな?」
「いいから行きましょう。ご両親が待っているのでしょう」
「そうだね。行こうか」
私はアスノトに手を引かれて屋敷へと歩き出す。
不覚だった。
自分でも無意識に出た言葉に、後になってから後悔する。
私は……彼に期待していたのだろうか?
◇◇◇
「すまないが、お前たちの婚約は認められない」
「……え?」
思わず声が漏れる。
アスノトに連れられ、私はご両親と朝食前に顔合わせをすることになった。
そして今、予想外の一言に驚愕している。
まさかこの段階で、婚約を両親から拒否されるとは予想していなかった。
私は困惑して隣に立つアスノトを見る。
「……ちょっと、どういうことよ」
私は彼にしか聞こえない小声で尋ねる。
屋敷で暮すためには屋敷の主、つまり彼の両親の了承が必要だ。
それは自分に任せろと息巻いていたのに。
それ以前の問題に直面している。
さすがの私も、一体どういうことだとこの場でもっと詰め寄りたい気分になった。
「ちょっとあなた、そんな言い方はイレイナさんに失礼でしょう?」
すると、アスノトではなく、当主である彼の父の隣から声が上がる。
隣に座っているのは彼の母親。
当主様は厳格そうな雰囲気だけど、こちらの母親はとてもおっとりしていて、表情も柔らかい。
彼女はおっとり怒りながら続ける。
「それじゃ私たちが、二人の婚約に反対しているみたいでしょ?」
「む、そうか。言い方を間違えた」
私は首を傾げる。
反対しているわけではないというの?
その疑問の答えを、当主様が続けて口にする。
「我々としては歓迎する。他でもないアスノト自身が決めた相手ならば……だが、我々にも貴族としての立場があるのだ。身内が納得するだけではダメなのだ」
「……?」
どういう意味なのだろう。
婚約は本来、本人たちの意思と、両家の同意があれば成立する。
世間の目は確かにあるけど、極論当事者たちが同意していれば関係ない。
今回の件も、ルストロール家はすでに同意済みで、当主様たちも認めているようだ。
それでも婚約を受け入れられない理由があるということ?
一体何?
私の疑問が表情に漏れる。
それを見た当主様が何かに気付き、アスノトに視線を向ける。
「まさか伝えていないのか? あの婚約の話を」
「はい。伝える必要はないかと思いまして」
当主様はため息をこぼす。
「あらあら、ちゃんと伝えなきゃダメじゃない。婚約は私たちだけの問題じゃないのよ?」
「申し訳ありません。考えが及びませんでした」
「まったく……お前は一度決めると後先を考えない。そういうところは直しなさい。イレイナさん、実はアスノトには以前から婚約の話が上がっていたのだ。その相手は……ララティーナ姫」
「――! 王女様、ですか?」
当主様はこくりと頷く。
ようやく話が見えてきた。
と同時に、私も当主様と同じように呆れる。
まったくこの男は、どうしてそんな重要な話をしていないのか……。
私は問い質すようにアスノトを見る。
「別に黙っていたわけじゃないよ? 君と婚約するんだから、それはもう関係ないと思っていたんだよ」
「……そんな簡単な話じゃないでしょう?」
アスノトは理解していないのだろうか。
王女様との婚約を断り、私を選ぶという意味が……。
当主様、彼のお父さんが詳しく説明してくれた。
この国、ヒストリア王国の第一王女ララティーナ・ヒストリア。
彼女との婚約は、王家から直々に話が上がったそうだ。
ちょうど一年ほど前から。
アスノトの意思で現在にいたるまで保留にしており、そのことを知る人間は少ない。
彼女はこの国でもっとも美しい女性と称されている。
そんな女性との婚約を反故にするなんて、王族に対する非礼以外の何ものでもない。
この事実を知れば、王族に限らず国民からも非難の声が上がるだろう。
「そういう理由で、王女様との婚約を受け入れず、他の女性と婚約するのであれば……相応しい理由と相手でなくてはならない。君を否定しているわけではないが……」
「いえ、わかっています。お気遣いいただき感謝いたします」
王女様と比べられているんだ。
誰だって見劣りするし、比べる土俵にすら立てない。
私じゃなくても、仮にお姉様であっても同じことになるだろう。
「ごめんなさいね。私たちにもっと発言力があればよかったのだけど」
「いいえ、お気遣い頂けたことを嬉しく思います。ただ、そういう事情があるのであれば、私がこの屋敷で共に生活するのは難しいのでしょう」
「ああ、そうなってしまう」
婚約者でもない。
赤の他人、しかも異性を屋敷に住まわせる。
それだけの理由がない。
仮にも彼は騎士王と呼ばれている人物だ。
騎士の代表たる彼が、異性を理由もなく屋敷に連れ込み、住まわせている……。
そんな噂が広まれば、人々は彼に疑いの目を向ける。
これまで築き上げてきた騎士としての姿が壊れてしまいかねない。
それは彼らにとっても、王国にとっても不利益でしかなかった。
正式に婚約者となれないのなら、長期的に滞在することは難しいだろう。
「数日であれば来賓としてここで過ごしてもらって構わない。だがいずれは……」
「はい。ありがとうございます」
数日だけでも居場所を提供してもらえるなら十分だ。
とは言え、またあの屋敷に戻ることになるのか。
正直憂鬱だ。
婚約者になれなかったと知れば、あの人たちはどんな反応をするだろうか。
想像せずともわかってしまう。
だからゾッとする。
それでも、ここが限界だろう。
「ダメだ。それでは彼女の幸せを守れない。彼女にはずっとこの屋敷にいてもらいたい。なんとしてもだ」
「――!」
ふと、彼の言葉を思い出す。
もっと自分のことで欲張ればいい……と。