新しい朝
今世では平穏を望んだ。
けれど私という人間は、どうしたって平坦な道は歩けないらしい。
そういう運命にあるのだろうか。
だとしたら、こんな運命を背負わせたのは誰?
神様?
一度ちゃんとお話をしましょう。
ゆっくり、お茶を淹れて。
「はぁ……」
「君はため息が多いな。そんなんじゃ幸せが逃げて行ってしまうぞ?」
「逃げる以前に幸せが訪れていないのよ」
「それはおかしいな。君は今、幸せを手に入れている最中だと思うのだけど?」
彼はニコリと微笑みながら語り掛けてくる。
胡散臭い演技を見ているようだ。
これを素でやっているからこそ恐ろしい。
私は二度目のため息をこぼす。
「はぁ……まだ到着しないの?」
「もうすぐだよ」
「王城から離れているのね」
「そうだよ。元々俺の家は王都の外にあったんだ。俺の父が王国騎士団に加入したことをきっかけに、王都で暮すようになった。今使っているのは、別荘だったところを改築した屋敷だよ」
「そうなのね」
てっきり最初から王都を中心に活動していると思っていた。
彼のグレーセル公爵家は、今では王都でも名の知れた貴族の一角となっている。
けれどそうなったのは、アスノトが騎士王の称号を獲得して以降だった。
彼が騎士王となったことで、グレーセル家は王族に次ぐ貴族の家柄に成長したらしい。
らしいというのは、出発前に急いで調べたからだ。
世論とか、今の貴族関係に興味がなかった私は、これまで他の貴族たちの情報を調べることはなかった。
さすがにこれからお世話になる家柄だから、最低限の知識は必要だろうと思い、珍しく調べておいた。
もっとも、そこまで詳しいわけじゃないが。
それでも理解した。
アスノト・グレーセルという存在の大きさを。
私は皮肉交じりに言う。
「グレーセル家にとってもあなたは家を大きくした英雄なのね」
「そんなことないさ。家を大きくしたのは父の代からだよ。それまでグレーセル家は、地方領主でしかなかった。父が実績を積み、騎士団の部隊長にまでなったことが、一番の分岐点だよ」
そう語るアスノトの横顔は、どこか誇らしげに見える。
私はそんな彼を見ながら尋ねる。
「父親のこと、尊敬しているのね」
「当然だよ。俺は父上の背中を見て育った。父上のような騎士になりたくて、この道を歩んだんだ」
「……そう。素敵なことだわ」
私とは大違い。
今世でも、前世でも、私は父の背中に憧れることはなかった。
むしろその逆で……。
「着いたよ」
馬車が停まり、少し揺れる。
アスノトが先に下車して、私に手を差し伸べる。
「さぁ、どうぞ」
「ありがとう」
こういう所作も騎士らしい。
意識せず自然体で振る舞えるところも、彼が女性に人気な理由の一つだろう。
私は彼の手を取り、引かれながら馬車を降りる。
そこには屋敷がぽつりと建っていた。
王都郊外、周りには建物がなく、住宅地からも距離がある。
別荘を改築したという話だったけど、予想していたよりも小さかった。
騎士王が所属するグレーセル家の屋敷にしては、少々見劣りする。
「改築したなら、もっと大きくすればよかったわね」
「必要ないよ。無駄に広い家は落ち着かない。騎士団の遠征で使うような簡易施設の部屋のほうが、俺は落ち着く」
「職業病ね」
「ははっ、そういうことかもしれないね。父上も同じみたいで、改築の時には少し屋敷を小さくしたんだ」
改築で大きくするどころか逆に小さくしていたなんて。
つくづく貴族らしくないことをする。
思えば前世に、貴族で騎士の家系という者たちは存在しなかった。
騎士は貴族を守るもの。
故に騎士になるのは、貴族たちではなく平民の方々だった。
現代では騎士という職業が、貴族にとっても大きなステータスとなっている。
「時代も変わると考え方も変わるのね」
「ん? 何か言ったかい?」
「なんでもないわ」
「そうか? じゃあ行こう。君の部屋に案内するよ」
アスノトは私の手を握る。
嫌がって抵抗しても、結局最後は手をとられる。
だから諦めて、彼に手を引かれることにした。
別に心から嫌がっているわけでもないし、ただ……少し恥ずかしいだけだ。
私たちは屋敷に入る。
すでに夜も更け、屋敷の灯りは最小限だった。
そのせいか、使用人の姿も見えない。
廊下を歩いているのは、私とアスノトだけだった。
「ここが君の部屋だよ」
案内された一室に入る。
ベッドがあり、机やソファーもあって、私がルストロール家で暮していた部屋よりも広くて綺麗だ。
「隣が俺の部屋だ。もし何かあれば気軽に言ってくれ」
「そう……ご両親への挨拶はしなくていいのかしら?」
「もう遅い時間だ。父も母も、寝る時間が早くてね。今はもう休んでいるよ」
「そうなのね。だったら起こしてしまうのは申し訳ないわ」
眠りを妨げられる不快さは、私もよく知っている。
彼がいいと言っているんだ。
今すぐ挨拶をする必要はないだろう。
それに私も……少し疲れた。
「私も休ませてもらうわ」
「わかった。何かあれば呼んでくれて構わないよ」
「そうするわ」
と口では言いつつ、呼ぶことはないだろう。
アスノトは一言、おやすみと告げて部屋を出て行った。
少し意外だった。
彼のことだから、もう少し強引に部屋に居座ったり、一緒のベッドで眠ろうとか提案される気がしていたけど。
彼なりに気を遣ってくれたのだろうか。
私はさっと寝巻に着替えて、倒れるようにベッドへ横になる。
「ふぅ……」
寝転がって天井を見上げる。
今夜からここが、私の家、私の部屋になる。
馴染むことができるだろうか。
安心できるだろうか。
正直今は、不安のほうが大きい。
けれど疲れが溜まっていて、お姉様の嫌がらせもないことは安心できるから、眼を瞑ると自然に……意識は沈んでいく。
◇◇◇
翌朝、私は目覚める。
身体は少し気だるげで、眼を開けると見知らぬ天井があって少し困惑する。
数秒、呼吸を止めて考えた。
「……ああ、そうだったわね」
ここはルストロール家の屋敷じゃない。
私は今、グレーセル家の屋敷、その一室にいる。
むっくりと起き上がり、ベッドの横の台を眺める。
「服がない? あ……」
探していたのは侍女として働くための服だった。
そして気付く。
私はもう、侍女として働く必要がなくなったことを。
「そうよね。ここはルストロール家じゃない」
私はアスノトの婚約者として、グレーセル家にやってきた。
もう働く必要なんてない。
労働からの解放だ。
喜ぶべきはずなのに……なぜかちょっぴり寂しさを感じる。
今さらだけど、案外気に入っていたらしい。
侍女として働く日々を。
名残惜しさを感じるなんて、我ながら贅沢だ。
時計を見る。
思った通り、時間はまだ早い。
外もようやく明るくなってきた頃合いだった。
普段なら身支度を済ませ、お姉様を起こすまでに自分のことを全て終わらせる必要がある。
急ぐ必要がないと思うと、逆に何をしていいかわからない。
今からもう一度寝る?
目はパッチリ冴えているし、今さら眠れそうにない。
「どうしようかしら……」
そういえば、今朝からどうすればいいのかアスノトに聞き忘れていた。
この屋敷での私の立ち位置は未だ曖昧だ。
使用人の方々は、私のことを認知しているのだろうか。
さすがにしていると考えて、待っていれば声をかけてもらえる?
それともアスノトが来てくれるのだろうか。
起こして聞こうと思えば、彼の部屋はすぐ隣だから簡単だけど……。
私は窓の外を見る。
「ちょっとくらいいいわよね」
私は窓を開ける。
風が吹き抜け、それに向かうように飛び出す。
ちょこんと風を操り庭へ着地した。
昨日は暗くて見えなかったけど、この屋敷は庭が広くて、周りも自然が広がっている。
ルストロール家よりも空気が綺麗だ。
私は深呼吸をする。
王都の喧騒はなく、風と草木の音だけが聞こえてくる。
「いいわね。こういう朝も」
「――朝は早いんだな」
ふと、風に乗って声が届く。
私は振り返る。
そこにはアスノトがさわやかな笑顔を向けて立っていた。
「あなたこそ、早いのね」
「騎士だからね。君は?」
「侍女として働いていたから、その癖よ」
「なるほど」
彼は話しながら私の隣に歩み寄ってくる。
「何をしているの?」
「朝の鍛錬だよ。今から始めようと思ったら君が見えた」
「そう、邪魔しちゃったみたいね」
「邪魔とは思っていないよ。むしろラッキーだ。朝から偶然、君とこうして会えたんだから」
中庭にはベンチがある。
アスノトはそこへ座り、隣を軽く叩く。
「君も座りなよ」
「いいの? 鍛錬はしなくて」
「するさ。でもその前に少し話そう。時間ならあるからね」
「……そうね」
それくらいなら付き合ってもいい。
私は彼の隣に座る。
一人分の距離を離して。
「もっと近づいてくれないのかい?」
「念のためよ」
「ははっ、その不安もいずれは解消したいところだね。どうすれば信用してもらえるのかな?」
「……さぁ、わからないわ」
私は青空を見つめる。
雲一つない、清々しいほどに青が広がる。
こんなにいい天気でも、雨は降るかもしれない。
「信用って、どうすればいいのかしらね」
「どうって?」
「わからないのよ。信用するっていう感覚が……」
「それはたぶん、相応に裏切られてきた結果じゃないかな」
アスノトの一言は核心を突くように、私の胸にチクリと刺さる。
その通りだ。
信用しても、信じても、裏切られると知っている。
だから私は、他人を信用しなくなった。
他人に、期待しなくなった。
「だったら俺が信用させてみせよう。君の願いを、思いを、俺にどんどん教えておくれ。その全てに応えられるように、俺は精一杯向き合うから」
珍しく真剣に、アスノトは私のことを見ている。
まるでこの言葉に嘘はないと、全身で示しているように……。
「そう、じゃあ、楽しみにしているわ」
天下の騎士王がそう言っている。
なら少しくらい……期待してもいいのかもしれない。