私を連れ出して
アスノトとの婚約が決まって一週間。
お姉様の当たりは強いまま、私は逃げるように中庭の掃除をしていた。
中庭の掃除中ならお姉様も邪魔してこない。
屋敷の中よりも外のほうが安全なんて、なんという皮肉だろう。
それもこれも、全部あの日……。
「あんな男に見つかったせいだわ」
「ひどい男に見つかったのかい。それは大変だ。ぜひとも騎士として君を守らないと」
「そうね。じゃあぜひお願いするわ。鏡に向かって自分に注意でもしていればいいのよ」
「ははっ、それは恥ずかしいな」
いつの間にか私の隣に立っていたアスノトが笑っている。
今その笑顔を見ると無性に腹が立つ。
「どこで何をしていたのよ。婚約者を放置して」
「あれ、ご機嫌斜めかな? 別に放置していたわけじゃないよ。騎士団の仕事があったから、王都の外にいたんだ。これでも予定より随分と早く終わらせてきたんだけど」
「……あれから私がどんな扱いを受けて来たか想像できる?」
「大変だったみたいだね。その顔の傷……姉にやられたのか?」
「他にいないでしょ?」
私はハッキリと肯定する。
苛立っていて、取り繕う気すら起きなかった。
「ひどいな。せっかく綺麗な肌なのに」
「――!」
彼は私の頬に触れる。
優しく、悲しむような瞳で見つめながら。
顔が一気に近づく。
私は咄嗟に彼の手を叩き、後ろに下がった。
「急に触らないで」
「すまないね。君のことを不安にさせるつもりはなかった。辛い思いをさせたことも謝るよ」
そう言って彼はまっすぐ私を見て、深々と頭を下げた。
天下の騎士王が、侍女の格好をした私に頭を下げているなんて……他の女性や貴族が見たらどんな反応を見せるだろう。
テキトーに謝っているわけじゃない。
その姿勢には、彼なりの誠意が込められているように感じた。
「どうか埋め合わせをさせてほしい。君が今、望むものは何だい? 可能な限り応えよう」
「最初から決まっているわ。平穏な生活よ」
「それは……今すぐには難しい」
「……知っているわよ。でもせめて……」
私は屋敷を見つめる。
この場所は、今の私にとって本物の地獄に等しい。
願わくばここから抜け出したい。
平穏じゃなくても……。
「痛い思いは……したくないわね」
私は本音を漏らす。
口にするつもりはなかったのに、思わず声に出てしまった。
その言葉を彼は聞く。
「わかった。だったら君をこの屋敷から連れ出そう」
「え?」
アスノトは右手を私に差し出す。
「どういう……意味?」
「この屋敷を出て、俺の屋敷で一緒に暮らそう、という意味だよ」
「……本気で言っているの?」
「もちろん、俺は嘘が嫌いなんだ」
そう言って彼は、差し出していた手を一度引っ込めた。
私が握らなかったから、少し残念そうに。
「君の願い、平穏な生活は今は難しい。ただ、今いる場所から救い出すことはできる。君は今、ここを抜け出したいと思っているんじゃないのかな?」
「……」
図星だ。
心を読まれた……違う、私が心を露呈させた。
表情で、言葉で、彼に伝わった。
ここにいたくない。
逃げ出したいという本音が。
だから彼は提案してくれているんだ。
「一存で決められないでしょう? そっちの屋敷の事情もあるわ」
「問題ないよ。父上も、母上も了承する。俺が必ずさせる」
「すごい自信ね」
「言っただろう? 埋め合わせをさせてほしい。君を婚約者に選んだのは、ただの気まぐれでもお遊びでもない。俺は本気で、君が気に入っている」
今度は強引に、私の手を掴んでくる。
強く、だけど優しくぎゅっと握る。
温かくて、大きな手だ。
「俺は騎士だからな。守ることは得意なんだ。でも……俺の手の届かない場所で何かあってからじゃ遅い。だから傍に、俺の目の届くところにいてほしい」
「それじゃただの庇護対象になるわよ? いいの? 他と変わらないわ」
「変わるさ。君は他の女性にはない魅力がある。容姿や力だけじゃない。君にはいくつもの秘密がある。俺は知りたいんだよ、君のことをもっと」
「……知ってどうするの?」
私の過去を、前世の後悔を知ったところで、彼に何の得があるのだろう。
同情されるだけか。
それとも、そんな人間とは付き合えないと言われるだろうか。
いいや、それ以前に信じないだろう。
虚言を吐くおかしな女だと思われるに違いない。
「決まってるよ。君を知って、もっと君のことを見ていたい。俺を……君に夢中でいさせてくれないか?」
「――あなた……」
彼は目を輝かせている。
そんな無邪気でまっすぐな瞳を見つめながら、私は驚きと呆れを合わせて言う。
「よくそんな恥ずかしいセリフが言えるわね。ちょっと気持ち悪いわよ」
「ははっ、君こそハッキリと言ってくれるじゃないか。そういうところも気に入っているんだ」
彼はニコリと微笑む。
「誰もが俺と話すとき、気を遣って、愛想笑いをして本心を隠している。上辺だけの付き合いに価値なんてない。疲れるだけだ……」
「それは同感ね」
「そうだろう? 何十、何百なんて周りにいなくてもいいんだ。俺はただ一人でも……心から信頼できる人がいてくれるほうが嬉しい。そんな相手を見つけたいと日々思っている」
そう言いながら、彼は私に微笑みかけてくる。
まるで……。
「それが私だと言いたいの?」
「俺はそう思っているよ。君とならそうなれるかもしれない。だから婚約者に選んだ」
「……」
「君もそうじゃないのか?」
「え?」
私たちは視線を合わせる。
アスノトは続けて語る。
「君ならあの状況でもなかったことにできた。そんな気がする」
「……そうかもしれないわね」
「でも君はそうしなかった。俺との婚約を選んでくれた」
「それ以外に選択肢がなかっただけよ」
「そうだとしても、君も少しは期待したんじゃないのか? 君が本当に求めるものが、この先にあるかもしれないと」
私が本当に求めるもの……?
その言い方はまるで、私が求めているのが平穏な生活じゃないと聞こえる。
もしも本当にそんなものがあるのだとしたら……。
私自身が気づいていないだけで、彼はそれを、教えてくれるというの?
「あなたは何がいいたいの?」
「俺たちは似た者同士だってことだよ」
「どこがよ」
「そのうちわかるよ。俺と一緒にいればね」
彼は改めて私の手を両手で握り、自分の胸に引き寄せる。
「俺の屋敷においで。この場所から……出てくるんだ」
「……」
私にとっての地獄。
前世で経験した燃える屋敷と、今いるこの場所……。
安らげる時間がなくなってしまった今よりも、さらに一歩踏み出すべきなのだろうか。
私はこの人を……どこまで信用できるだろう。
「……一つだけ条件があるわ」
「なんだい?」
「一緒の部屋は嫌よ」
「それは残念だ。せっかくなら同じベッドで眠るのも悪くないと思っていたのに」
先に言っておいてよかった。
男と同じベッドで寝るなんて、前世を含めても一度もなかったことだから。
そこまで許す気にはなれない。
ただ、今いる場所よりはいくらかマシだろうと思う。
「あなたの屋敷に行くわ」
「決まりだね。じゃあ手続きは俺がしておくよ。ルストロール公爵にも俺から伝えよう」
「そうね。そのほうが助かるわ」
お父様やお姉様と顔を合わせると、また何を言われるかわからない。
ここでの私はか弱い侍女だ。
ならば存分に、頼れる騎士王様に守ってもらおう。
◇◇◇
「どういうことですか? お父様」
「話した通りだ。アスノト公爵より要望があった。イレイナは今日からグレーセル家の屋敷で暮すことになる」
すでに話は進み、イレイナは屋敷を出発した後だった。
それをストーナが知ったのは、彼女が出発した直後であり、それまで一切知らされることはなかった。
これにストーナは怒っている。
「どうして私に教えてくださらなかったのですか?」
「アスノト公爵から、この話は内密にするようにと言われていた……すまない」
「……お父様も、イレイナの味方をするのね」
「そういうわけじゃない! だが、イレイナがアスノト公爵に気に入られているのも事実だ。私はルストロール家の当主として、この家を守らなければならない」
ルストロール公爵は焦りを発露する。
ここ数日、ストーナの苛烈な行いを黙認しつつ、イレイナと関わらないようにしていたのは、自身の立場と貴族としての未来で揺れていたからだった。
アスノトが属するグレーセル家は、同じ公爵であっても、王国内での地位はルストロール家よりも上である。
彼らと懇意にすることは、家名を大きくする上で必要なことだった。
そのためにイレイナを利用できるなら構わないと、ルストロール公爵は考えていた。
「わかってくれストーナ。お前にはもっといい相手が見つかる」
「……騎士王様よりも? そんなお相手、もう王族しかいないわよ」
「……」
「お父様が私と王子様を引き合わせてくれるの? だったら嬉しいわね」
ストーナの怒りは沸々と膨れ上がる。
妹に先を越された。
恥を感じ、怒り、妬む。
もはや自分の味方をしてくれる父の言葉すら、彼女は聞き入れない。
「……イレイナより私のほうがいいに決まってるのに」
彼女は決意する。
必ず、愚妹から騎士王を奪ってみせる、と。