地獄の始まり
「どういうことなんですか!」
「私にもわからない。なぜアスノト公爵が……彼は婚約の話が上がる度に断っていたと聞く。その彼が自分から婚約したいなどと。しかもよりによって……」
「どうして……」
アスノトとイレイナの婚約が決まった日の夜。
すでに数時間が経過しても尚、二人だけは状況を完全に理解できていなかった。
理解できない。
いいや、理解したくない。
彼らは認めたくなかったのだ。
特に姉であるストーナは……。
「なんでイレイナなの? 私じゃないの?」
「ストーナ」
「お父様! 私のほうがずっと優れているわ! 見た目も、振る舞いも、魔法使いとしての才能だってあるのよ? なのにどうして、出来の悪い妹を選ぶのよ!」
「それは……私にもわからない」
彼らは知らない。
不出来で無能だと思っている妹の中身を。
誰より優れた才能を、知恵を、人格を持ちながら、それを隠し通して来た故に。
彼女こそが、この国を作り育てた偉大な女王であることを。
もしも知ったところで信じることもないだろう。
「ありえない……ありえないわ」
彼らにとってイレイナは、同じ家名を名乗るのも烏滸がましい下等な存在でしかなかったのだから。
◇◇◇
夜になると落ち着く。
周りも静かになって、一人の時間ができるから。
自室のベッドで横になり眼を瞑る。
「……眠れない」
普段ならすぐに眠れる。
ここは私の家で、私の部屋で、特に狙われる理由もなかった。
常に気を張っていた前世とは違う。
今の私には、夜を恐れ怯える理由なんてない。
そのはずなのに……。
気持ちがソワソワする。
全部あの男のせいだ。
「はぁ……夢ならよかったのに」
あの男に出会ったのも、秘密を知られてしまったのも。
婚約者になったことだって、全て夢ならよかった。
夢ならば覚めて現実に戻ることができる。
けれど最悪なことに、今いるここが現実だとハッキリわかる。
「……今夜は眠れそうにないわね」
私はベッドから起き上がり、窓側に歩いて近寄る。
カーテンを開けた。
今夜は月がよく見える。
丸くて綺麗で、見ていると吸い込まれそうになる。
満月の夜は憂鬱だ。
嫌でもあの日のことを……かつての私の最期を思い出してしまうから。
そう……。
「あの日も、満月だったわね」
燃え盛る炎。
立ち上る煙、崩れ落ちる天井。
真っ赤な世界でひときわ目立つように、真上に月が輝いていた。
笑われているみたいだった。
お前も所詮は人の子で、女王なんて名に相応しくないと。
まったくその通りだ。
女王なんて肩書も地位も、私には不釣り合いだった。
本当の私は弱くて、ちっぽけで、何もない草原で一人寝転がって、安らかに眠るほうがしっくりくる。
そんな人生を、今世では送りたい。
「本当……満月には縁があるわね、私は」
願わくば、今日という日が正しい選択だったと思えるように。
私にとっての幸せが、この先にありますようにと、初めて私は月に願う。
神様なんていない。
願いは聞き入れられることはないと……知っているのに。
◇◇◇
翌朝。
私はいつもの時間に起床して準備を始める。
侍女の朝は早い。
手早く着替え、自分の食事は先に済ませて、主人の部屋に急ぐ。
トントントンとノックをして、呼びかける。
「おはようございます。お嬢様」
「……」
返事はない。
眠っているのだろうか。
珍しいことじゃない。
こういう時は数秒置いて、許可を貰う前に中に入る。
「失礼します」
ガチャリと扉を開けて中に入った。
視線が合う。
どうやら眠っていたわけではなかったらしい。
すでに起床していたお姉様は、私のことをギロっとにらむ。
「ちょっと、なんで許可もなく入ってきているのよ」
「……お返事がなかったので、まだ眠られていると……」
「侍女の癖に勝手に入ってくるなんて無礼よ! いい加減にしなさい!」
「――っ!」
お姉様は近くにあった花瓶を手に取り、私に向けて振るう。
中に入っていた花と水が私の顔にかかる。
花瓶の水はこれから交換するもので、時間が経っているから臭いが香る。
頭からかぶり、臭いにおいに私は包まれてしまった。
「……申し訳ありません」
「二度としないでくれる? あなたは侍女なのよ」
「かしこまりました」
「わかったら早く着替えの準備をしなさい」
「はい」
言われた通りに動こうとする。
そんな私に彼女は罵声を浴びせる。
「ちょっと! そんな汚い格好で私の服に触るつもりなの?」
「申し訳ありません。すぐに着替えてまいります」
「一分以内に戻りなさい。でないとお仕置きよ」
「……かしこまりました」
私は頭を下げてお姉様の部屋から一旦退室する。
部屋を出てすぐ、私はため息をこぼす。
「はぁ……」
予想はしていた。
あんな出来事があった翌日だ。
プライドの高いお姉様が、私のことを許せるはずがない。
普段以上にあたりが強い。
ノックをして返事をしなかったのもお姉様だし、水をかけて汚したのも自分なのに。
一分で着替えを済ませるなんて不可能だ。
理不尽すぎる要求に、二回目のため息をこぼす。
あの様子だと、お仕置きも普段の何倍もきついはずだわ。
暴力は好きじゃない。
するのも、受けるのも。
私は周囲を見渡して、廊下に誰もいないことを確かめる。
「仕方ないわね」
どっちにしても不機嫌さは変わらない。
ならばせめて、よりマシなほうを選択するだけ。
私は自分の胸に手を当てる。
「時よ、逆巻け」
物の時間を遡る魔法を発動する。
十数秒前に時間を戻せば、水を掛けられる前の状態になる。
この魔法は生物にも有効だ。
私の身体と、私が着ていた服は綺麗になる。
まだ時間的に少し早い。
もう少し……五十秒くらいの時点で、扉をノックする。
「お嬢様、ただいま戻りました」
「……」
「お嬢様?」
返事がない。
なるほど、今度はそう来るのか。
つくづく意地が悪い。
時間制限を設けながら、入室の許可を与えない。
さっき注意されたばかりだ。
許可もなく中に入れば、問答無用に罵声を浴びせられるだろう。
考えが甘かった。
私には最初から、怒られる以外の選択肢がなかったらしい。
「はぁ……もう……」
我が姉ながら、呆れるほどにやることが子供ね。
それじゃまるで、選ばれなかった理由を、自分自身で示しているのと同じことよ。
一分が経過する。
しばらくしてもう一度ノックをして、今度は返事があった。
中に入る。
意地悪なニヤケ面で彼女は言う。
「一分、守れなかったわね」
「……一分前にはお声かけしたはずですが」
「何よ? 私に口答えする気? そんなにもお仕置きされたかったのかしら?」
「……申し訳ありません」
ため息すら出なくなる。
反論した私も馬鹿だった。
今の彼女に何を言っても、火に油を注ぐのと同じことだ。
お姉様はただ、私をイジメたいだけなのだから。
この日を境に、屋敷での生活はより過酷になった。
何をしても罵声を浴びせられる。
普段通りに仕事をこなしても、何かに理由をつけてお姉様は文句を言う。
私は逆らえない。
今の私は侍女で、お姉様の命令は絶対だから。
ただの侍女に、主人に逆らう権利はない。
仕事をしては怒られて、お仕置きと称して暴力も振るわれる。
他の使用人たちは見て見ぬフリをする。
お父様も知ってか知らずか、私の前に現れない。
「痛っ……」
日に日に生傷が増えていく。
魔法で回復させることはできるけど、痛みを感じないわけでもない。
叩かれたら痛いし、血だって出る。
痛いのは嫌いだ。
けれど今の私にはどうすることもできない。
騎士王と婚約したところで、この屋敷での私の立場は何も変わらなかった。
いや、むしろ……。
「最悪な日々ね」
私は自室で眠りに就けず、夜空を見上げながら思う。
本当にこの選択は正しかったのだろうか。
私のことを婚約者にしたあの男は、今頃どこで何をしているのか。
多忙なのは知っている。
でも、婚約者が困っているのに何もしてくれない……とか。
「笑っちゃうわね」
何を他人に期待しているのか。
選択肢はなかった。
半ば強引に決まった婚約に、どんな信頼があるのだろう。
そんなものはない。
私はあとどれくらい、この地獄を耐えればいいのだろうか。