第1話 咲耶、龍生の告白を思い出して身悶える
病院から帰って来ると、咲耶は『ただいま』も言わず、自室へと直行した。
階段を上り、部屋のドアを開け、バッグを机の上に放り投げると、勢いよくベッドに直進し、両手を広げてダイブする。
「わあああああッ!!」
大声を上げ、手足をバタつかせたと思ったら、横向きに一回転。頭を抱え、右に左に、体をゴロンゴロン転がす。
かと思えば、急にガバッと起き上がり、両手で頭を掻きむしると、『ああああっ、もうッ!! ふざけるなっ、あのクソ仮面王子めがッ!!』と毒づいた。
もしも今、咲耶のこの状態を、他人が目にしていたならば、いったい何事かと、眉をひそめたことだろう。
とにかく、じっとしていられないほど、彼女は混乱していた。
今日は、『ユウくん』が結太なのかどうか、ハッキリさせるために、見舞いに行ったはずだった。
もちろん、母親から『結くん』と呼ばれていたからといって、咲耶の知る『ユウくん』と結太が、同一人物とは限らない。
――いや。
そんな都合の良い話があるものかと、疑ってはいる。
あくまで念のためだ。
万が一のことを考え、咲耶と幼い頃に出会ったことがあるかないかを、結太に訊ねてみるつもりだったのだ。
違うなら違うで構わない。
YESかNOか。知りたいのはそれだけだった。
ハッキリとした答えを出すことだけが、咲耶の望みだった。
……それなのに。
確かめるどころか、ろくに結太と話もしないまま、カッとなって、病室を飛び出して来てしまうとは。
おまけにそのあと、龍生に掴まるわ、壁際まで追い詰められるわ、結太の首元の〝歯形〟のことまで知られてしまうわで……まったく、散々な目に遭った。
(どうしてあいつは、あそこまで歯形のことを気にするんだ? 『教えないとキスする』などと、戯けたことまで言いおっ、……て――)
「うわあああッ!!――何がキスだ!! あの大うつけ王子めがぁああああッ!!」
……恥ずかしかった。
あれほどの羞恥を覚えたのは、生まれて初めてだった。
思い出しただけで、脳内が沸騰しそうになり、体も熱くなって、汗が滲み出て来る。
(……わからん。あいつが何を考えてるのか、さっぱりわからんッ!……キス、などと……。キス……なんて――……ホントに? 本当にあの時、私が拒んでいなかったら……キス、する……つもりだった……のか?)
そっと、唇に触れてみる。
瞬間、龍生の顔が脳裏に浮かび、咲耶の心臓はドクンと跳ね上がった。
あの時の、真剣な顔。
耳元で優しく響いた、『離したくない』――。
あの言葉が引き金となり、咲耶はあの出来事を、まざまざと思い出したのだ。
……忘れていたかったのに。
思い出しさえしなければ、こんな思いをせずに済んでいたのに……。
『君は咲耶。保科咲耶――』
『俺が惹かれてやまない、ただ一人の女性だ』
龍生の台詞が、繰り返し脳内で再生される。
とたん、顔も体も、燃えるように熱くなった。
咲耶は、声にならない叫びを上げてベッドに突っ伏し、恥ずかしさと、初めて味わうムズムズとした感覚に身悶えた。
(――くそぅっ! 何が、『惹かれてやまないただ一人の女性』だッ!! あんの気障王子めッ!! 恥ずかしげもなく、よくもあんな台詞を――っ!)
右手の甲を額に当て、上気した顔を自覚しながら、天井を睨み付ける。
(……告白、か……。そう言えば、告白なんてされたの、初めてだ。……こんなにも気恥ずかしく、居た堪れない気持ちになるものなんだな……)
咲耶ほどの美人であれば、今までにも、告白の一つや二つ、されていて当然な気もするが。
桃花に対する強過ぎる愛情が、周囲に知れ渡ってしまっているためだろうか。
それとも、『残念な美人』という、称号のためなのか。
意外にも、告白をされた相手は、正真正銘、龍生が初めてだった。
(本当に、いったいどういうつもりなんだ、あの男は!? 『惹かれてやまないただ一人の女性』だと?――嘘をつけ! 『惹かれてやまない女性』を、秘密をバラすと脅したりするか!? 普通なら、好きな人に対しては、好かれるためにあれこれ努力したり、他の人より優しくしたりするものだろう!? あいつは全く違うじゃないか! 私が嫌がるようなことばかりして、好かれようって気持ちが、微塵も感じられない! そんな状態で『惹かれてやまない女性』などと言われたって、信じられるわけがないだろうがッ!!)
確かに、普通はそうなのだろう。
しかし、残念なことに、龍生は《普通とは違う》のだ。
――と言っても、異常とか変態とか、そういう意味ではなく……。
抱えている事情が事情と言うか、ストレートに想いを伝えるには、複雑なあれこれが邪魔をして、すんなりとは行かないと言うべきか……。
いずれにせよ龍生には、想いをストレートに伝えることが出来ない、様々な事情がある。
そのことを、咲耶はまだ知らない。
龍生には気の毒なことではあるが、彼の告白を素直に信じられないのも、無理からぬことだった。
(……そうだ! あいつのことだから、あれも、ただの戯言だったのかもしれない。私をからかうために、大袈裟な台詞を持ち出しただけ……。うん! きっとそうだ! そうに決まっている! その証拠に、あの告白まがいのことをして来て以降、それらしい言葉を口にしたことなど、一度だってなかったじゃないか。……歯形のことを教えないと、『キスする』などと言ったのは……あれはやはり、そのぅ……脅迫、だったんだろうし……)
『俺は本気だ。君が教えてくれないなら、今ここで、君にキスする。……覚悟はいい?』
唇が触れる直前にまで迫った、龍生の整った顔。
甘い声でささやかれた台詞が、まるで映画のワンシーンのように、脳内で再生される。
「わあああああーーーーーーーッ!!」
それらを脳内から追い出そうとするかのように、咲耶は大きく頭を振った。
……いったい、何度脳内を沸騰させ、体温を上昇させれば気が済むのだ。
こんなことを繰り返していたら、体が急激な変化ついて行けず、そのうち、死んでしまうのではなかろうか?
まさかとは思いつつ、そんな恐怖すら覚える。
(ああああっ、もうっ! まったく、腹立たしいっ! どーして私が、あんなスカした仮面王子なんかのために、こんな目に遭わなければいけないんだっ!?……忘れたい。いっそ、もう一度忘れてしまいたいっ!! いや、忘れさせてくれぇえええーーーーーッ!!)
ベッドに倒れ込み、再び手足をバタバタさせていると、その音を聞きつけて、階下から母――時子の声がした。
「咲耶、帰ってるのーーーっ? さっきから、バタバタギャーギャーとうるさいわよーーーっ? もう少し静かにしなさーーーいっ!」
ハッと我に返り、体を起こして正座する。
(……まあ、何はともあれ、改めて告白された――ってわけではないんだ。忘れたことにして、知らんぷりしていよう)
咲耶はそう決意すると、乱れたベッドの上を、両手で撫でつけて整え、夕飯の支度を手伝うため、一階に下りた。