第13話 東雲と鵲、龍生の異変に慌てふためく
「トラッ! どーしよう!? 坊が変なんだ!」
東雲が、離れのランドリールームで、アイロン掛けをしている時だった。
鵲が息せき切って入って来て、冒頭の台詞を言い放った。
東雲はアイロンの電源を切り、アイロン台に置くと、『はあ?』と言って振り返り、怪訝顔で鵲を見つめる。
「坊ちゃんが変?……どんな風に変だってんだ?」
「ど、どんな風にって……。それは、その……」
鵲はそこで言葉を切ると、東雲の腕をガシッと掴み、
「とにかく変なんだよッ!! 説明するより、実際見た方が早い! 一緒に来てくれっ!」
早口で告げると、何処かへ向かって駆け出した。
鵲に引っ張られる形となった東雲は、慌てて、
「おっ、おいっ! まだアイロン掛けの途ちゅ――」
「んなもん後でだって出来るだろ! 坊とアイロン掛けと、どっちが大事なんだ!?」
言おうとしたことを最後まで言わせてもらえず、東雲は目を白黒させながらも、大人しく鵲の後に続いた。
何が何だかわからなかったが、『坊とアイロン掛けと、どっちが大事なんだ!?』とまで言われてしまったら、従わないわけには行かない。東雲だって、龍生のことは大事に思っているのだ。
どこに行くのかと思ったら、同じ離れの一室、リビングルームの前まで連れて来られた。
鵲は、そうっとドアを開け、ひざまずいた状態で、隙間から室内を窺う。
「おい、何やってんだよサギ? 坊ちゃんがどーのって話じゃなかったのか?」
「シッ!――だから、坊は今、リビングのソファに座ってらっしゃるんだよ。ほら、ここから覗いて見ろよ。絶対、いつもの坊じゃないんだから」
(『いつもの坊じゃない』?……何だそりゃ? 坊ちゃんがいったい、どーしたってんだ?)
東雲は不審に思いながらも、鵲に言われるまま、ドアの隙間から中を窺った。
龍生は鵲の言葉通り、ソファに座っていた。
そこまでは、いつもと何ら変わらない、ただの日常風景だったが、ふと、龍生の右手に目をやると、指先以外全てに、包帯が巻かれている。
「なっ、何だありゃ!? おい、サギ! 坊ちゃん、怪我なさったのか!? いつ!? どこでっ!? 何があったってんだよ、おいッ!?」
包帯の痛々しさにギョッとし、思わず、鵲の首元を締め上げて問い詰める。
鵲は苦しそうに呻き、片手で東雲の腕をバシバシ叩いた。
「――あ。すまん」
我に返り、東雲は慌てて、首元から手を離す。
鵲は何度か咳き込んでから、恨めしげに東雲を睨んだ。
「ハァ。死ぬかと思った。……落ち着けよトラ。怪我と言えば怪我なんだろうが、そんな大怪我ってわけじゃないから。――ってか、問題はそこじゃないんだよ!……いや、そこも関係あるっちゃーあるんだけど。……う~ん……。まあ、とにかくちょっと見てろって」
そう言って、鵲は再びドアに張り付き、龍生の様子を窺う。
東雲は首をかしげると、ひざまずく鵲の後方に立ち、前屈みになって、中を覗いて見たのだが……。
龍生は、包帯を巻かれた右手を、じっと見つめていた。
そして時折、その手を左手でそっと撫でたり、顔の近くまで持って行って、しげしげと眺めたり、はたまた、キスするように唇に押し当てたりと忙しい。
「ど、どーしたってんだ坊ちゃん? 今、手の甲にキスっぽいことしてなかったか?」
「――な、おかしいだろ? さっきからずーーーっと、あれを繰り返してるんだ」
「……で? あの包帯の下にゃ、何が隠されてんだ? 怪我ってんじゃなけりゃ、何だってんだよ? 坊ちゃんのことだから、好きな芸能人に会って、握手してもらった――なんてこたぁ、まずねーだろーし……」
好きな芸能人や有名人がいるという話など、龍生から聞かされたことは一度もない。
もし、好きな芸能人やらがいたのだとしても、今日は、午後に結太の見舞いに行っていたはずだ。病院で芸能人に会う確率など、そう高くはないだろう。
「あの包帯の下には、誰かに噛まれたらしい痕が……歯形がクッキリと残ってたんだ」
「へー、歯形ねぇ…………へッ!? 歯形ッ!?」
東雲は素っ頓狂な声を上げ、鵲に視線を移した。
鵲は人差し指を唇に当て、『シッ!』とやってから、あまり大声を出すなと、ヒソヒソ声で注意する。
「坊に気付かれたら大変だぞっ。ただでさえ、トラは地声が大きいんだから、もっと気を付けてくれよっ」
「あ……ああ、悪い。つい、ビックリしちまって。……って、いやっ。んなことより、誰に噛まれたってんだよっ? 歯形残るほどったら、相当強く噛まれたんだろ? 誰にだよっ?」
今度は声を潜めて訊ねたが、鵲は僅かに首を振ると。
「それが、訊いても教えてくださらなくってさ。そればかりか、最初は歯形すら、隠そうとなさってたんだぜ? 病院から戻ってらしてから、俺に『包帯をくれ』っておっしゃってさ。『お怪我なさったんですか? 傷を見せてください。私が手当てします』って言ったら、『いい。自分でやる。包帯だけ渡してくれ』って」
「坊ちゃんが!? ご自分で!? 怪我の手当てをっ!?」
「シーッ!……だからっ、声大きいってトラはっ」
「あぅ……。す、すまん。……で、おまえはどーしたんだよ? 自分でやるって言われて、引き下がったのか?」
「いや。『片手で――しかも、利き手ではない方の手で包帯を巻くのは、相当大変ですよ? お手伝いします』ってお伝えしたよ。けど、『いい。大丈夫だ。自分で出来る』、って……」
「カーーーッ! やーっぱ頑固だなぁ、坊ちゃんは」
「そうなんだよ。でも、どの程度の怪我なのか心配だったしさ。とにかく、傷を見せてくださいってお願いしたら、これも拒否されて。その後しばらく、『見せてください』『嫌だ』の押し問答」
「なるほど。……けど、おまえも結構しつけーな」
呆れたような視線を向けて来る東雲に、鵲はムッとしたように口をとがらせ、
「当たり前だろ! もし、酷い怪我だったりして、坊に何かあったらどーするんだよ!? いくら拒否されたって、そこだけは引いちゃいけないだろ!?」
それが従者の務めだとでも言いたげに、強めに主張する。
東雲は、その勢いに少々引きつつも、考えてみれば、確かにその通りだとうなずいた。
「――ん、ああ……。まあ、そーだよな」
「だろ!?……で、最後はお叱り覚悟で、強引に手を掴んでさ。嫌がる坊を無理やり押さえつけて、隠してらした右手を見たんだよ。そしたら……見事なくらいクッキリと、歯形が残っててさ」
「へー。……しっかし、坊がそこまで隠したがる相手って、マジで誰なんだろーな?」
「うん。すっごい気になる。……だって、あれだよ? あんな意味不明な動作繰り返してる坊なんて、初めて見るだろ?」
再びダイニングにいる龍生に目をやり、鵲は真剣に問い掛ける。
東雲も、再び視線を中に移すと、顎に手を当て、うんうんと何度もうなずいた。
「確かに。年がら年中、動作も表情もキリッとなさってるもんなぁ、坊ちゃんは。それが今は……あっ、笑った! 坊ちゃんが右手見つめて笑ったぞ、サギ!」
興奮した様子で、東雲は鵲の肩をバシバシ叩く。
「痛ッ!!――み、見ればわかるって! そんな興奮するなよ」
「えーーーっ! だって、坊ちゃんが右手見てニヤついてんだぜ!? 超貴重じゃねーか!……よしっ! こりゃー連写だ連写!」
いつの間に用意したのか、東雲は目の前にスマホをかざすと、龍生を連写モードで撮り始めた。
「あっ! ズルいぞトラ! 俺だって、坊の貴重な場面を記録に残したいのに!……んじゃあ、こっちはムービーで行こうっと」
鵲も、負けじとスマホを取り出す。
そうするともう、どちらも止まらない。
二人はしばし無言で、龍生の全身からアップまでを、写真と動画に収めるため、まるで競争するかのように、スマホを構え続けた。
それからしばらくして。
突然、
「おまえ達、そこで何をやっとるんだ?」
背後から龍之助の声が降って来て、二人は同時に飛び上がった。