第12話 龍生、咲耶を追い詰め謎を解かんとする
ヤケクソ気味の大声で言い放たれた、『何故、結太の首元に〝歯形〟を残したのか?』に対する咲耶の答えは、結太と同じく、『わからない』だった。
龍生は一瞬、咲耶までもがそんな下手なごまかし方をするなんてと、呆れそうになったが、この期に及んで、そんな単純な嘘をつくはずもないかと思い直し、
「君にもわからないとなると、歯形の真相は、永遠に解明されないことになるね。……どうにもスッキリしないな。保科さん、本当に覚えていないの?」
わざと疑っているような訊き方をすると、龍生は少しだけ咲耶から顔を離した。
咲耶はまだ目をつむったまま、訴えるように声を張り上げる。
「覚えてないッ!! これっぽっちも記憶にないッ!! 嘘なんかついてないんだっ、だから――っ、早く私から離れろぉおおおおーーーーーッ!!」
龍生はフッと笑みを浮かべ、『ああ、こんなに必死になって。……まったく。いちいち可愛いくて困るな。このままずっと、腕の中に閉じ込めておきたくなる』などと、咲耶が聞いたら、鳥肌を立てて嫌がりそうなことを考えていた。
だからつい、
「……離したくない」
無意識に、本音を漏らしてしまった。
そのつぶやきを耳にしたとたん、咲耶はぱちっと目を開き、驚いたように顔を上げ、龍生をじっと見つめた。
瞬間、龍生はしくじったことに気付いたが、一度放った言葉は、なかったことには出来ない。気まずく視線を横にそらす。
「……今、何て言った?」
言い訳を考える暇もなく、咲耶にまっすぐ問われてしまい、らしくなく龍生はうろたえた。
「いや。……それは……」
慌てて咲耶から手を離し、まっすぐな視線から逃れるように、くるりと背を向ける。
咲耶は龍生の腕を掴み、同じ問いを繰り返した。
「なあ。今、何て言ったんだ?」
――形勢逆転。
今度は、龍生が追いつめられる羽目になった。
「おまえが私に言ったこと、もう一度聞かせてくれ。今、何か……何かが、思い出せそうだったんだ。確か、前にもどこか……で……」
『いいや、離さない』
瞬間、頭で声が響いた。
龍生の声で、ハッキリ『離さない』と。
この台詞を聞かされたのは、いつだったか――……。
……そうだ。
あの時だ。
無人島で二人きりになった時。
結太が倒れたことがショックで、『ユウくん』のことを思い出して――。
それから……それから、『ユウくん』が運ばれて――……いや。結太が運ばれて行くのを見て、自分も後を追おうとしたら、龍生に止められ……『離して』と叫ぶ咲耶に、龍生は言ったのだ。
『いいや、離さない』と――。
尚も取り乱し、騒ぎ続ける咲耶に、『いい加減にしろ』と一喝し、それから……それから……。
『君は咲耶。保科咲耶――』
『俺が惹かれてやまない、ただ一人の女性だ』
「――っ!」
再び脳内で龍生の声が響き、その言葉の意味を、その時初めて理解した咲耶の顔は、瞬時に赤く染まった。
「……あ……あ……」
両手で顔を包み込み、龍生の背を見つめたまま、咲耶は一歩、二歩と後ずさる。
あの時は、混乱していた。
急激に過去の記憶が流れ込み、一時だけ、感覚が幼い頃に戻ってしまっていた。
しかし、抱き締められ、耳元で、あんな台詞までささやかれておいて、何故に今まで忘れていられたのだろうと、自分が信じられなかった。
一方、龍生は龍生で、どうやって咲耶の追及をかわそうかと、一心に考えていた。
だが、咲耶の声が全く聞こえなくなったのを不思議に思い、そろりと首だけで振り返ってみると。
「――え?」
とたん、両手を頬に当て、異様なほどに顔を赤らめている咲耶が視界に入って来て、我が目を疑った。
今まで見たこともない、何とも言えない恥じらいの表情を浮かべた咲耶は、とても愛らしく、別人かと思えるほど、頼りなげな風情を醸し出していた。
龍生が言葉を失くし、ひたすらに見入っていると、咲耶は更に真っ赤になって、慌てて背を向けた。
……なんだこれは。
よくわからないが、再び形勢逆転なのか?
龍生は呆気に取られ、無言で、咲耶の背を見つめるばかりだった。
いったい何が原因で、咲耶の顔が、あそこまで、赤く染まるに至ったのか。
いくら考えてみても、理由が判明するとは思えなかったし、このままお互いに黙っていても、埒が明かない。
龍生は咲耶の肩に手を置き、何があったのか訊ねようとした。
すると、
「触るなッ!!」
肩に指先が触れた瞬間、もの凄いスピードで振り払われた。龍生の片手は行き場を失くし、空中で固まる。
咲耶は自分の肩を抱き、体を丸めるようにして、うつむいてしまった。
「……保科、さん……?」
ためらいながら声を掛けると、咲耶はビクッと肩を揺らし、今度は両耳をふさいで、思い切り首を横に振る。
「やめろっ、その声で喋るなッ!!――見るな触るな喋るなぁッ!! もう、私に構わないでくれッ!!」
あからさまに拒絶され、龍生は呆然と立ち尽くした。
(……『見るな触るな喋るな』……? 〝見ざる言わざる聞かざる〟の、三猿とかけてでもいるのか?)
思わず、そんなどうでもいい連想をしてしまった。
だが、顔を赤くし、小さく縮こまっている咲耶を見ているうちに、悪戯心がムクムクと湧き上がって来た。
感情に身を任せ、背を向けたままの咲耶にそっと近づき、後ろから抱きすくめる。
「ヒ――ッ!」
色気とは程遠い声が、耳元で響く。
しかし、それも咲耶らしいと、龍生はクスクス笑いながら、彼女の髪に顔を埋めた。
当然、咲耶は龍生の腕から逃れようと、右に左に、激しく体を振る。
「離せッ!! 離せこのうつけがッ!! ふざけるなっ、おい――っ!!」
両手で龍生の腕を掴み、懸命に引きはがそうとするが、咲耶と言えども、男の力には敵わない。いくらもがこうとも、逃れることは出来なかった。
背中から伝わる、龍生の体温。
硬い体の感触。
ほのかに漂う、柔軟剤の香り……。
その全てが、あの時の記憶を呼び起こし、咲耶は生まれて初めて、脳内が沸騰するかのような、激しい羞恥を覚えた。もう限界だった。
「は――っ、離せったら離せぇええええーーーーーッ!!」
力の限り叫ぶと、咲耶は無我夢中で、龍生の手の甲に噛み付いた。
「――っ!」
あまりの痛みに、思わず両手を引っ込める。
咲耶は素早く階段まで移動すると、二~三段駆け下りたところで振り向き、
「お、おまえが悪いんだからなっ!? 離せって言ったのに離さないからっ!!……わ、私は悪くないぞ!! だから絶対、謝らないからなっ!?……ばっ、バーカバーカッ!!」
言いたいことだけ言って、また数段駆け下り、再び立ち止まる。
そこでもう一度振り向いて、
「バーーーカッ!!」
まるで念押しするかのように、大声で言い放った。
予想外の反撃に、返す言葉も見つからない。
咲耶は立ちすくむ龍生を残し、今度は一度も止まらないまま、脱兎のごときスピードで、階段を駆け下りて行った。
噛まれた右手の甲を左手で押さえ、龍生はしばらくの間、その場から動けずにいたのだが……。
ふいに『ク――ッ』と吹き出すと、階段中に響き渡るほどの大声で、腹を抱えて笑い始めた。
龍生がこれほど思い切りよく笑ったのは、その時が初めてだったかもしれない。
「ハ……ハハ……。捨て台詞が『バーカ』って……。まったく。小学生じゃあるまいし」
ひとしきり笑った後、龍生は目尻の涙を拭い、ジンジンと痛む手の甲から、左手をそっと離した。
そこに現れたシルシを、愛おしむように見つめる。
(痛みを感じるほど――痕が付くほど強く噛み付かれて、これほど嬉しいと感じる男など、俺ぐらいのものだろうな)
龍生はおもむろに手の甲を顔に近付けると、そのシルシに優しく唇を落とし、幸せを噛み締めるように微笑んだ。