第11話 龍生、病室を飛び出した咲耶を追い掛ける
病室を出た龍生は、走ってスタッフステーションの前を通り過ぎ、エレベーター前にいる咲耶を見つけた。
そのとたん、後方から『廊下は走らないでください!』と看護師に注意され、慌てて立ち止まる。
振り向いて謝罪し、また前を向いたところで、やはり振り向いていた咲耶と目が合い、思い切り嫌な顔をされてしまった。
咲耶は階数表示のランプに目をやり、どの階で光っているのかを確認すると、チッと舌打ちし、横の階段へと駆け出した。大人しくエレベーターを待っていては、龍生に追いつかれると思ったのだろう。
「保科さん、待って! 君に訊きたいことがあるんだ!」
そんなことを言ったところで、咲耶が止まってくれるはずもない。
わかってはいたが、龍生の声に反応した様子も見せず、彼女が階下へ消えて行くのを認めると、失望でため息が漏れた。
だが、そこで諦める気など、更々なかった。注意されても構わないと、走って階段に向かい、下りて行く彼女の後姿に、再び呼び掛ける。
「保科さん! 頼むから待ってくれ!」
「うるさいッ!! 追って来るなバカッ!!」
(……バカで結構。『追って来るな』と言われて、素直に従えるか)
咲耶も同じ気持ちだったのだろうが、心でそう言い返しながら、龍生は三階分ほど下りたところの踊り場で、咲耶の右腕を掴んだ。そのまま振り向かせ、もう片方の手で左肩を掴む。
咲耶は『離せ!』と大声でわめきながら、手が届く範囲の龍生の体を、両拳で叩いた。
龍生は痛みに耐えながら、離すどころか、ますます両手に力を込めて押さえ込み、落ち着かせようと踏ん張る。
「保科さん! 頼む、落ち着いてくれ!」
「うるさいッ!! 離せ離せ離せッ!! 離さないなら腕に噛み付いてやるっ、それでもいいのかッ!?」
逃れようと必死になるあまり、思わず口を衝いて出た言葉だったろう。咲耶に、他意はなかったに違いない。
だが、その言葉が、一時龍生から冷静さを失わせ、嫉妬心に火を点ける引き金となった。
龍生は掴んでいた咲耶の腕を引っ張り、後方にある壁まで彼女を追い詰めると、両手を掴んで壁に押し当てた。
咲耶は『貴様、何を…っ!?』と声を上げ、強気に龍生を睨み付けたが、彼は少しも怯まず、真顔で見下ろす。
「いいよ。噛み付きたければ、どこにでも噛み付くといい。……結太に噛み付いたように」
ゾッとするほど、抑揚のない声だった。
咲耶は息を呑み、目を見開いて龍生を見返した。
「噛み付いたんだろう? 無人島で、二人きりの時に。結太の母親――菫さんから聞いたよ。結太にも直接聞いたし、首元の君の歯形も見た。……よほど強く噛み付いたんだね。痕がクッキリと残っていたよ。あれだけ噛まれたら、結太もさぞ痛かったろうと思うが……いつ、どうやって噛まれたのか、わからないと言うんだ」
龍生はそこでクスッと笑うと、
「結太も、相変わらず嘘が下手だな。痕が残るほど噛まれていて、気付かないわけがないのに。あれでごまかせたと思っているのだとしたら、困ったものだ。……ねえ、そう思わないか?」
咲耶は一切答えることなく、悔しげに唇を噛み、龍生を睨み付けている。
こんな不穏な状況であるにもかかわらず、龍生は間近にある咲耶の顔を見つめ、『ああ。こんなに険しい表情の時ですら、咲耶は美しいな』などと考えていた。
幼い頃も、整った顔立ちをしていたが、見た目が男の子っぽかったせいか、そこまで意識したことはなかった。
それなのに、今目の前にいる咲耶は、すっかり女性らしくなって……。澄んだ瞳は、吸い込まれてしまいそうなほど、輝いて見える。
きつく閉じられた形の良い唇も、口紅など付けなくても、キスしたい衝動に駆られるほど瑞々しく、綺麗な珊瑚色をしていた。
これから先、もう好かれる可能性がないのなら、いっそ、本当にキスしてしまおうか。
そんな誘惑が頭をよぎりはしたが、ファーストキスの相手が嫌っている男というのは、さすがに可哀想だと思い、ギリギリのところで踏み止まった。
冷静さを失っているとは言っても、それくらいのことを考える余裕は、僅かに残っていたようだ。
龍生はじっと、咲耶が反撃して来るのを待っていたが、咲耶からは、何の言葉も発せられなかった。
沈黙に耐えきれず、龍生は再び口を開いた。
「結太がそんな調子だからね。どうしてあんなところに君が噛み付いたのか、理由がわからず仕舞いなんだ。……ね、教えてくれないか? 結太に噛み付いた理由を――」
「し――、知るかッ! おまえに教えなきゃいけない義理なんかないッ!」
ようやく咲耶が言い返して来て、龍生は内心安堵した。
やはり、咲耶はこうでなくては。
「そうだね。義理はないかな。ないけれど……どうしても知りたいんだ。もし、本当に結太が噛まれたことに気付かなかったとすると、答えは君にしかわからないってことになるだろう? だったら、やはり君に訊くしかない。……教えてくれ。君はどうして、結太に噛み付いたんだ?」
「だ――っ!……だから、おまえに教える気などないと言っているだろう!? しつこいぞ!!」
「……ああ。俺はしつこいよ。君が教えてくれるまで、何度だって訊く。答えがわかるまで、ずっと君につきまとうつもりだ。それが嫌なら、今ここで教えてくれ」
「断るッ!!」
睨み付けられながら言い切られ、龍生はカチンと来た。
それならばと、鼻先が触れるかと思われるほどに顔を近付け、ささやくように告げる。
「じゃあ、教えてくれなければ、このままキスすると言ったら? それでもまだ、答えられない?」
「なっ!……な、何をバカなことを――っ!」
咲耶がうろたえたように目をそらす。
もう一押しと踏んだ龍生は、更に続けて。
「バカでもいいよ。俺は本気だ。君が教えてくれないなら、今ここで、君にキスする。……覚悟はいい?」
龍生の顔が、今にも唇に触れてしまいそうな距離まで近付く。
咲耶はギュッと目を閉じると、大声で言い放った。
「やっ、やめ…ッ!! やめろぉおおッ!!――お、教えるも何も、私だって知らないんだッ!! 朝起きたら、楠木の首が目の前にあって……歯形がクッキリ残ってて!……あんなとこ、楠木が自ら噛み付ける場所じゃないし、他に誰もいないし――っ! だ、だったら、歯形を残したのは私しかいないっ――と思った。思ったがっ!……わ、私にもわからないんだッ!! 何故そんなところに噛み付いたのか、全く覚えてないんだッ!! だからどーしてそーなったのか、私だって知りたいんだよッ、ちっくしょぉおおおおーーーーーッ!!」