第6話 龍生、結太の見舞いへ向かう
翌朝。
龍生は結太の見舞いに行くため、安田が運転するいつもの車に乗り、窓の外をぼんやりと眺めていた。
結局、昨日は夕食をとってから、すぐに眠ってしまったが、寝つきの悪い龍生にしては珍しく、早く眠れたようだ。
ベッドに入り、目を閉じてからの記憶が全くなく、次に目を開けた時には、朝になっていたことからも、それがわかる。
(お祖父様に、帰って早々呼び出され、将棋を一局と言われた時には、神経を疑ったが……。今思えば、あれが良かったのかもしれないな。疲れがピークに達したから、余計なことを考える気力もなくなり、すぐに眠りに就くことが出来たんだろう)
龍之助が将棋の相手をさせたのも、これが目的だったとしたら……。
やはり、侮れない人だ。――龍生は心の底から感服した。
「あの人を敵に回したら、大変な目に遭わされるのは明白だな」
思わず、フッと笑みをこぼすと、『龍生様? 今、何かおっしゃいましたか?』と安田が訊ねて来たが、『何でもない。独り言だ』と返し、再び窓の外に目をやる。
「左様でございましたか。……それはそうと、龍生様。別荘にご宿泊された日、ご友人の皆様を、ヘリポートまでお送りした際には気付かなかったのですが……背のお高い女性は、あの時の――保科家のお嬢様だったのですね。保科様とは、今も懇意にしていらっしゃるのですか?」
いつも無口な安田からの問いを、珍しく思いながら、龍生は前方に目を移し、ルームミラーに映る彼の顔を見やった。
表情はいつもと変わりなく、穏やかだ。
「懇意……と言えるほどのものではないが、最近、また知り合ってな」
「それはよろしゅうございました」
「……よかった、か。……どうだろうな。本当によかったのか……」
「――龍生様?」
浮かない返事に、安田はルームミラーをちらりと見、龍生の様子を窺った。
てっきり、再会を喜んでいるものと思っていたのに、何かあったのだろうかと、心配になる。
「向こうは、俺のことを完全に忘れていた。こちらにとっては再会でも、向こうは、〝つい最近知り合った、金持ちのボンボン〟――という感覚でしかないらしい」
「えっ?……それは……何と申し上げたらよろしいのか……」
「仕方ないさ。あれからもう、かなり経ってしまっている。いつまでもハッキリと覚えている、俺の方がおかしいのかもしれん」
「……龍生様……」
自嘲気味に笑う龍生に、安田は困惑の表情を浮かべた。
龍生は窓の外に目をやり、つまらなそうに、流れゆく景色を眺めている。
今の二人の会話からも察せられるように、龍生と咲耶は、かなり以前に知り合っている。
もう少し詳しく言えば、十年と数ヶ月前。結太よりも先に、龍生は咲耶と出会っていた。
安田はその頃、まだ運転手ではなく、今の鵲と東雲のように、秋月家のボディガードをしていた関係から、咲耶のことも、よく覚えているのだった。
咲耶を見た時の安田に、桃花が妙な違和感を覚えたのは、〝保科家のお嬢様〟に安田が気付いた瞬間を、ちょうど目にしたからなのだ。
「龍生様。もうひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「――何だ?」
「保科様のことは、鵲と東雲には、お話していらっしゃいますか?」
「……いや。二人には話していない。咲耶があの時の子供だということも、気付いていないはずだ」
「では、この先も、お話するおつもりは――」
「ない。……少なくとも、二人が気付くまではな」
「……承知しました。それでは私も、黙っていることにいたしましょう」
龍生は軽くうなずいて、『ああ。すまんが、そうしてくれ』とだけ伝えた。
そしてふと、『そう言えば、昨日のお祖父様との雑談中にも、咲耶のことを訊かれたな』ということを思い出す。
龍之助も、咲耶が結太と共に訪問した時には、あの時の子供だとは、気付いていなかったらしい。
その後、龍生から特に話したりもしなかったので、今も知らないのだろうと思っていた。
だが、咲耶が帰った後に思い出したとかで、『この前来た美人は、保科さんのお子さん――十年前の、あの時の子供だったそうだな』と、訊ねられたのだ。
(お祖父様も、このことは、『鵲と東雲には教えていない』とおっしゃっていたな。二人も、もういい大人だ。今更、あの時のことを気に病んだりはしないだろうが……。せっかく記憶が薄らいで来たものを、わざわざ思い出させるのも、可哀想な気もするしな。知らない方が、お互いのためにもいいのかもしれない)
……そう思いつつも。
咲耶にだけは思い出してほしい――と、つい願ってしまう。
あのような記憶、いっそ失くしたままの方がいいのだと、頭ではわかっていても。
あの頃の二人の思い出を、自分だけが抱き続けて、これからを生きて行くのかと考えると、堪らなく寂しくなる時があるのだ。
(『思い出だけでも生きて行ける』と言う人もいれば、『思い出だけでは生きて行けない』と言う人もいる。……俺は、どちらなんだろうな。生きて行けると、今までは信じて来たが……咲耶と身近で接してしまうと、やはり、願わずにはいられなくなる。『楽しかった時の記憶を、消さないでくれ』と。『どうか思い出してくれ』と――)
心は、いつもふたつの感情を、行ったり来たりしている。
〝思い出してほしい〟は、己のため。
〝思い出さない方がいい〟は、咲耶のため。
己と咲耶。
どちらの気持ちを重要とするかで、答えは全く違って来る。
(ここのところは、己のための感情の方に、偏ってしまっているな。咲耶のことを考えれば、このまま忘れ去られた方がいいはずなのに。……俺はこんなに、自己中心的な人間だったのか。咲耶より、己の気持ちを大事に思うなんて……)
やり切れない思いで、流れ行く景色を眺めては、ため息をつく。
外は、今の龍生の気持ちを反映するかのように、霧雨が降り出していた。