第5話 龍生、疲れを癒すためシャワーを浴びる
眠気を堪えながら離れに戻った龍生は、自室に行く前に、まずはキッチンに向かった。
キッチンでは、宝神が食材の下ごしらえに取り掛かっていた。
龍生が、『今日は軽めのものでいいから、早めに夕食を頼む』と伝えると、即座に承知し、再び作業を開始した。
自室へ向かいながら、龍生はしみじみと、『お福も、昨夜はあまり眠れなかったろうに、疲れた顔ひとつ見せずに働いている。タフな老婦人だ。まったく、頭が下がるな』などと感心し、微かに笑みを浮かべた。
部屋に入ると、龍生はバスルーム(離れの部屋には、別荘と同じく、それぞれにバスルームが付いている)に直行した。
一階には、大きな浴室もあるが、今日はシャワーだけで済ませるつもりなので、部屋のバスルームで充分だと思ったのだ。
バスルーム前まで来ると、側にあるキャスター付きランドリーバスケットに、脱いだ服を放り込む。
ここに服を入れておけば、朝、宝神が回収しに来て、同じ階にあるランドリールームで、洗濯してくれる。
そして夜には、綺麗にアイロン掛けされ、ピシッとたたまれた衣類が、チェストに収まっているというわけだ。
バスルームに入り、シャワーの蛇口を限界まで捻る。
水圧を強めにし、頭から勢いよく浴びれば、眠気も吹き飛ぶと思ったからだが、さすがに強過ぎた。少しだけ弱め、全身にシャワーを浴びていると、昨日から今日までのことが、次々に脳裏をよぎった。
別荘に着いてすぐ、結太が鵲に投げ飛ばされて、気を失ってしまったこと。
咲耶と無人島に行き、彼女の弱みを盾に取って、結太と桃花の仲を取り持つ手伝いを頼んだこと。
遅咲きの桜を、咲耶と共に眺めたこと。
別荘に戻ってからは、咲耶の態度があまりにも冷たいので、カッとなって自分の指を噛み、僅かだが、流血したりもして――……。
(我ながら、常軌を逸した行動だったな、あれは……。咲耶に嫌われていることなど、とっくにわかっていたはずなのに。『卑怯なヤツの血は、さぞかし奇妙な色をしているんだろう』などと言われ、柄にもなく傷付いて……。『ならば見せてやろう』と、気付いた時には、指先に噛み付いていた)
片手を目の前に持って行き、噛み付いた指先を見つめる。――さすがにもう、咲耶が巻いてくれたハンカチはない。そこには、自分で巻いた絆創膏があるだけだ。
咲耶のハンカチは、誰にも触らせたくなかったので、自身で手洗いし、ある場所に仕舞ってあった。
……あの時。
咲耶が少しも迷わず、指先を口に含んだ瞬間。
今まで経験したことがないような感覚が、背筋から脳天へと、稲妻のように貫き。
その後、じわじわと全身に広がって行った。
あの恍惚とも呼べる感覚を、今も忘れられない。
咲耶と目が合ったとたん、我に返りはしたが……。
気まずい想いが胸を満たし、しばらくの間、彼女の目を見ることが出来なかった。
(俺を嫌っている彼女が、まさか、あんな行動に出るとはな……。意外過ぎて、とっさに体裁を繕うことも出来なかった。……情けない話だ)
いつでも平常心を保っていられるよう、幼い頃から、自分なりに努力して来たつもりだった。
それなのに、咲耶のこととなると、冷静ではいられなくなってしまう。
好きになってもらえる可能性がないのなら、いっそ、嫌われた方がマシだと、彼女が不快に思うようなことばかりして来た。
とことん嫌われる覚悟は、とうに出来ていたはずだった。
だが、ほんの少しでも優しくされようものなら……ちらとでも、和らいだ表情を向けられようものならば。
どうしても……どうしても、欲が出て来てしまう。
やはり、嫌われたくないと。
ずっと彼女の側にいたいと。
(……ダメだ。中途半端に関わるくらいなら、嫌われてしまった方がいいんだ。よく言うじゃないか。〝好きの反対は嫌いではなく、無関心〟だと。……彼女にとっての〝その他大勢〟になど、絶対になりたくない。記憶にすら残らない、ただすれ違ったことがある程度の人間になど、なって堪るか)
だからこそ、盗聴器のことまで話したのだ。
あれで完全に、咲耶は龍生のことを軽蔑したはずだ。
好かれることなど、絶対にあり得ないだろう。
……それでいいと思っていた。
嫌われても、憎まれても、彼女の心に少しでも留まることが出来るのなら、本望だと。
……けれど。
咲耶が結太のことを、『ユウくん』と呼んだ時。
必死に結太に取りすがり、『死なないで』と泣き叫んでいた時に。
再び、激しい感情が渦巻いた。
咲耶と結太の仲は、決して、良いと言えるものではなかったはずだ。
少なくとも、無人島に二人が取り残される前までは。
だが、あれ以降の二人の間には、微妙な変化が起こったように、龍生には感じられた。
共に危機を乗り越えた、連帯感のようなものなのだろうか?
それとも……結太に対する恋愛感情のようなものが、咲耶の内に芽生えたのか?
その感情の表れが、『ユウくん』……なのだろうか?
しかし咲耶は、『ユウくん』は結太のことではないと言った。
だとしたら、誰が『ユウくん』なのだ?
結太が『ユウくん』ではないのであれば、何故、結太に向かって『ユウくん』などと――?
龍生は深いため息をつき、蛇口を捻ってシャワーを止めた。
濡れた髪を片手で掻き上げ、そのままの姿勢で、しばし考え込む。
(……わからないことだらけだ。咲耶に直接訪ねたいが、『今後一切、その質問はするな』と言われてしまったし……)
たった一日で、いろいろなことがあり過ぎた。
龍生の脳も、体も、疲弊し切っていた。
とにかく、今日はさっさと夕食をとり、眠ることにしよう。
面倒なことは、明日また考えればいい。
そう判断し、龍生はシャンプーの容器へと手を伸ばした。