第3話 咲耶、車中で桃花の身を案じる
桃花を自宅まで送った後、安田が運転する黒塗りの高級車は、咲耶の家に向かっていた。
助手席には、鵲が座っている。
咲耶は後部座席に一人で座り、窓の外を、見るともなしに眺めていた。
(桃花、ずっと蒼い顔をしていたが……大丈夫だろうか? 昔から、免疫力が高い方じゃなかったからな。風邪などでなければいいんだが……)
桃花の具合が悪くなったのは、精神的な理由によるものが大きい。
咲耶はそのことには全く気付いておらず、桃花の体の心配ばかりしていた。
桃花は、咲耶が結太の首元に付けた歯形の話が出た後に、具合が悪くなった。
それに加えて、咲耶は龍生から、『桃花は結太のことが好きらしい。もしくは、かなり気になっているようだ』という話を聞いている。
この二つを合わせて考えてみれば、桃花が具合が悪くなった原因は、〝歯形の話〟にあると、すぐに気付いてもよさそうなものなのだが……恋愛事に疎い彼女には、気付くことが出来なかったようだ。
桃花に、『咲耶ちゃんは、楠木くんのことを好きになっちゃったのかもしれない』などと思われてしまっているとは、夢にも思わず、咲耶はひたすら、『桃花が風邪を引いていませんように』ということだけを祈っていた。
「あっ! そうだ安田さん。保科様のご自宅は、ご存じなんですか?」
桃花を送り届け、またしばらく走った後、思い出したように、鵲は安田に訊ねた。
そう言えば、家の場所を訊かれていないなと、咲耶は運転席の安田に目をやった。
「……ええ。事前に確認済みです。問題ありません」
ルームミラー越しの安田は、表情一つ変えず答える。
鵲は、『さすが安田さん! 坊――いえ、龍生様のご友人に関する情報は、全て頭に入ってるんですね』などと感心している。
だが、咲耶にしてみれば、こちらが教えてもいないことを、既に知られてしまっているというのは、正直言って、あまり良い気はしなかった。
(まあ、この人達は雇われている身だ。主人の命には、嫌でも従わなければならんのだろう。あの仮面王子の我儘に、年中付き合ってやらねばならんのだから、大変だろうな。心から同情する)
そんなことを思いつつ、再び窓の外に目をやると、家の近所に差し掛かっていることに気付いた。
咲耶は、『ここからなら歩いて帰れる』と、降ろしてくれるよう安田に頼んだのだが、
「いいえ。坊には、必ずお家までお送りし、ご家族の方々にご迷惑をお掛けしたことを、よくよくお詫びして来るようにと、申し付けられておりますので。ここでお降りいただくわけには参りません」
ただでさえ強面の顔を、更に厳しく引き締め、鵲が言い張る。
近所の手前、こんな目立つ車で家の前に乗り付けられては、かえって迷惑だと伝えると、『それでは、家の少し手前で降りていただきます。後は私が、直接家までお送りいたしましょう。安田さんは、車内で待っていてください』ということになった。
わざわざ家まで送ってくれなくてもいいのにと、咲耶は面倒に思ったが、秋月家の立場上、そういうわけにも行かないのだろうと、諦めることにした。
家に着くと、鵲は咲耶の母親に向かって深々と頭を下げ、いつの間に用意したのか、菓子折りの入った紙袋を差し出していた。
咲耶の母は、『あらあら。ご丁寧に、どうもすみません』などと言って受け取っている。
大人のやりとりが長くなりそうだったので、咲耶は鵲に軽く挨拶すると、さっさと靴を脱いで居間に向かった。
居間に入って荷物を床に置くと、咲耶はソファに座って一息ついた。
普段ならこの辺りで、小学一年生の弟達(ちなみに双子だ)がまとわりついて来るのだが、どこかに遊びにでも行っているのか、家の中は妙に静かだった。
今は連休中なので、家にいるだろうと思っていた父の姿も見当たらない。
どこに行ったのかと、居間に入って来た母に訊ねると、弟達にせがまれ、少し遠くにある、大きな公園まで遊びに行っている、ということだった。
(――ということは、今家にいるのは、私と母様だけか。……フン。ちょうどいい。あのことを訊いてみよう)
余談だが、咲耶は母親のことを、家では『かかさま』と呼んでいる。父親は『ととさま』だ。
決してふざけているわけではない。
幼い頃、祖父や祖母と観ていた時代劇で、子役がそう呼んでいたので、真似して呼んでいたら、すっかり癖になってしまったのだ。
咲耶の台詞に、時折、時代掛かった言葉が混ざるのは、その頃の影響が大きいからだろう。
咲耶は急いで二階に駆け上がると、自室で部屋着に着替え、キッチンにいる母の元へ向かった。
母の時子は、夕食の支度の真っ最中だったらしい。まな板の上で、黙々と豚肉の筋切りをしていた。
「母様! 私の部屋の写真を撮って、秋月に渡したって本当なのか!?」
開口一番、咲耶は時子の背に問い掛ける。時子は顔だけくるりと振り向き、
「え、写真? 写真って……」
つぶやいた後、首を捻りつつ黙考していた。
だが、すぐに『ああ!』と声を上げると、『そうそう。撮ったわよ~。もう、結構前のことになるけど』と、咲耶が呆れてしまうほどあっさりと白状した。
「何故そんなことを!? いくら秋月家が、この辺りでは有名な金持ちだからと言って、個人情報を簡単に渡してしまうなんて、どうかしている! 母様は、危機管理というものが全くなっていない!」
しかも、年頃の娘の個人情報を男に売る(いや、実際に売ったわけではないだろうが)など、正気の沙汰とは思えない。大いに反省してくれと、自戒を促す。
時子はニコニコ笑って聞いていたが、咲耶の言い分を聞き終わると、以下のように反論した。
「あら~。だって、あの秋月さん家の龍生くんよ~? 変なことに利用するとは思えないし、無断で売るとも思えないし。べつにいいじゃない、部屋の写真くらい。ベッドの上に下着が散乱しているところを撮ったって言うなら、お母さん、責められても仕方ないなーと思うけど。そんなもの、ひとつも写ってなかったでしょ?」
(――って、下着が写ってなきゃいいとか、そういう問題でもないだろう!?……第一、『変なことに利用するとは思えない』と言うが、現に、その写真利用して、思いっきり脅迫されたんだが!?)
母親の無責任な返答に、怒りと呆れ半々くらいの気持ちを抱きながら、咲耶は絶句した。
日頃から、抜けていると言うか、何か、どこか足りないんじゃないかと思えるところはあったが、ここまで酷いとは思わなかった。
どれだけ秋月家を信用しているのか知らないが、それは親の都合だろう。娘まで巻き込むのはやめてほしいと、ゲンナリした。
「ウフフッ。そんなことより、今日は咲耶の大っ好きなトンカツよ~。夕食、楽しみにしてなさいね~」
時子は何事もなかったかのように、再び豚肉の筋切りを開始する。
咲耶も、〝トンカツ〟と言われた瞬間、腹がぎゅるるるると鳴り始め、
(そうだ。今日はいろいろゴタゴタしてたから、昼飯を食う暇がなかったんだ)
ということを思い出した。
そうするともう、咲耶の頭は、夕食のことでいっぱいだ。写真のことなど、スコーンとどこかへ飛んで行ってしまった。
悲しいかな、結局、咲耶と時子は、似た者親子なのだった。