第2話 桃花、咲耶の急激な変化に戸惑う
龍生の家の、毎度の黒塗りの高級車で、家まで送ってもらった後。
桃花は、自分の部屋のベッドに腰掛け、お気に入りのぬいぐるみを抱き締めながら、暗い顔でうつむいていた。
帰って来てからも、結太の母、菫が言っていた『歯形』のことが、ずっと頭から離れず、気になって気になって仕方がないのだ。
菫は、結太の首の後ろの方をつつきながら、誰に付けられたのかと訊ねていた。
桃花は最初、何のことやらわからず、ぼーっと二人のやりとりを眺めているのみだった。
しかし、隣で『歯形……』とつぶやくのが聞こえ、ふと目をやると、咲耶は真っ赤になって口元を押さえていた。
咲耶のあんな顔を、桃花は初めて見た気がする。
桃花の知る咲耶は、いつもキリっとしていて、隙がなく、常に自信に溢れていた。
大袈裟ではなく、本当に王子様――いや、騎士のように凛々しくて、カッコイイ印象だったのだ。
それなのに……。
(あの時の咲耶ちゃん……なんだか、すごく可愛く見えた。カッコイイじゃなくて、可愛く。……それが嫌なわけじゃないの。わたしだって、可愛い咲耶ちゃんを見られるのは嬉しい。せっかくあんなに美人さんなのに、男の子っぽいところばかりが目立っちゃうのは、もったいないなって、前から思ってたし。……でも……)
桃花が引っ掛かっている点は、その変化が、この数日で、急激に起こっているように思えるところだった。
この数日――。
龍生や結太と知り合ってからの、数日。
たった数日の間に、咲耶は桃花の知らない顔を、たびたび見せるようになった。
苛立った顔。寂しそうな顔。泣き出しそうな顔。
そして、顔を真っ赤に染めての、可愛らしい恥じらい顔……。
もともとの咲耶は、可愛らしい人だ。
カッコよくて凛々しい姿は、特に無理をして演じているわけではないのだろうが、後天的に具わったもののように、桃花は感じていた。
たとえば、宝塚の男役を演じる女性は、日頃から男性の立ち方や座り方、仕草などを観察して、より本物の男性に近付けるよう、努力しているものらしい。
退団後も、なかなかその癖が抜けず、つい、足を開いて座ってしまったりもすると聞く。
咲耶の場合、わざわざ観察したり研究したりして、男っぽい言葉遣いなどを身に着けたわけではないのだろうが、それに近いものを感じるのだ。
(わたしが知り合った頃には、もう咲耶ちゃんは、今と近い、男の子っぽい咲耶ちゃんだったけど。ふと見せる表情とか仕草とか、ドキッとするくらい、女性らしかったりすること、あるんだよね……。だからきっと、もともとの……芯と言うか、核の方の咲耶ちゃんは、女性らしい部分が、もっとたくさんあるような気がする)
桃花が考える、その〝核〟の部分が、たった数日間で、表に出て来ることが多くなった。
それは、いったいどうしてなのか。
咲耶の女性らしい部分を引き出す、きっかけになっているのが、もし、結太なのだとしたら……。
そこまで考えた時、階下から母の声がした。
今日は疲れただろうから、まずはお風呂に入りなさい――とのことだった。
桃花は『はい』と返事して、パジャマやバスタオルをチェストから取り出し、胸に抱えると、階下へと下りた。
お湯に体を沈めてから、桃花はまた、部屋にいた時の続きを考え始めた。
咲耶の変化の理由。咲耶の〝女性らしい部分〟を引き出したのは、いったい誰なのかを。
どれだけ考えても、やはり、結太のような気がしてならない。
特に、昨夜以降の咲耶を考えると、そうとしか思えないのだ。
……昨夜、二人の間に何かあった、ということなのだろうか?
その〝何か〟が、咲耶の女性らしさを引き出すきっかけになったのか――。
結太の首元にある〝歯形〟は、本当に咲耶が付けたのか?
だとしたら、何故そんなものを、結太の首に……。
何故、噛み付くようなことをしたのだろう?
(人に噛み付くなんて、よっぽどのことがない限りしないよね?……普通は、怒った時? あとは……その人に捕まえられたりとかして、逃げたい時……とか……)
……逃げる? 咲耶が?
咲耶が結太から逃げ出す状況とは、いったいどういう時なのだ?
逃げる……追う……。
そういう状況とは、もしや……。
もしや、〝襲われそうになった時〟か?……もしくは、〝襲われた時〟?
(まさか!! 楠木くんが咲耶ちゃんを襲うなんて、そんなことあるわけない――!!)
桃花は湯船に浸かりながら、大きく首を振った。
だいたい、そんなことがあったとしたら、あの咲耶が、黙って泣き寝入りなどするはずがない。
絶対に、反撃するに決まっている。
襲われたのではないとすると、他に考えられることは……。
二人きりでいる間に、急激に距離が縮まり――ふざけて噛み付くような、何かが起きた……?
だから咲耶は、歯形が菫に見つかった時、あんなに真っ赤になっていたのか?
歯形を付けるに至った時のことを思い出した結果が、あの恥じらい顔……?
(咲耶ちゃん、まさか……楠木くんのこと、好きになっちゃったの……?)
そう思ったとたん、桃花の頬を涙が伝った。
(……あれ……?)
続けざまに、涙の雫が、ぽとぽとと湯船に落ちる。
桃花は慌てて、指先で目元を拭った。
――だが、拭うそばから、次々に涙が溢れ出し、拭っても拭ってもキリがないほど、絶え間なくこぼれ落ちて行く。
(あれ?……あれ? なんで……どーして、涙が……?)
咲耶に好きな人が出来たのなら、それは、喜ばしいことだ。
今まで、恋をしたことがない(――かどうかは正確にはわからないが、少なくとも、咲耶の口からその手の話題は、一切聞いたことはなかった)咲耶が、恋に目覚めたのだとしたら、親友なら、祝ってあげたい気分になるのが、普通の感覚なのではないだろうか。
……なのに、どうして自分は、涙など流しているのだろう?
咲耶を結太に取られてしまう気がして、寂しいからだろうか?
……それとも……。
その後、どれだけ考えてみても、桃花が真実にたどり着くことはなかった。
本来なら、とっくに答えが出ていてもおかしくない状況なのだろうが、桃花の内の何かが、答えを導き出すことを、頑なに拒んでいた。