第11話 結太、咲耶に謝罪されてうろたえる
菫と龍生が出て行った後の病室内では、しばらく沈黙が続いた。
どうしていいかわからない結太は、ベッドの上で、ただただ、無駄に時間が過ぎて行くのを感じていたのだが……。
「楠木」
急に咲耶に呼び掛けられ、結太はビクッと肩をすくめた。
慌てて『はっ……はいっ?』と返事すると、真剣な顔で近付いて来て、直角と言ってもいいくらいの角度で、頭を下げる。
「――へっ!?」
驚いて目を見開く結太に、
「私のせいでこんなことになってしまって、本当に申し訳ない!!」
顔を上げぬまま、咲耶は真剣な様子で謝って来た。
焦った結太は、うろたえながらも、『捻挫みてーなもんで済んだんだし、あんま気にすんなよ』『早く顔上げろって』と、困り顔で伝える。
咲耶は大きく頭を振り、
「いいや! おまえが突き飛ばしてくれていなかったら、ベッドの上にいたのは、私の方だった。それに、直撃したのが脚だったから、この程度で済んだんだ。もしも頭に当たっていたら……運が悪ければ、死んでいたかもしれない。……私が……私がもっと早く、枝の落下に気付けていれば、こんなことには……っ!」
悔しそうに、声を絞り出す。
ここまで深く、他人に対して頭を下げている咲耶を、桃花は初めて目にした。
結太が怪我をするまでの経緯は、まだ、詳しくは知らされていない。
それでも、咲耶が神妙な面持ちで、ここまで深く頭を下げるのだ。今回の事故に、強い責任を感じていることは、容易に察せられた。
「咲耶ちゃん……」
辛そうな咲耶を見ていると、桃花まで、胸が苦しくなる。
出来ることなら、変わってあげたいくらいだった。
「そんな……やめてくれって! 今更、もしものこと言ったって、どーしよーもねーだろ? こーして無事だったんだから、もーいーじゃねーか」
「よくないッ!! もしもにしろ何にしろ、おまえは死んでいたかもしれないんだ!! その可能性のある事故だったんだ!! それだけでも――っ、……それだけでも、私が断罪される理由は……ある、だろう?……危うく、おまえの母親に……息子を失くす悲しみを、味わわせてしまうところだった……」
咲耶の声は、徐々に小さくなり、語尾も微かに震え、聞き取りにくくなって行く。
まさか、ここまで深刻に捉えられているとは、夢にも思っていなかった。
意外と咲耶も、繊細なところがあったんだなと、結太は驚き、同時に、困惑していた。
(『息子を失くす悲しみ』って……。たかが筋挫傷で、そこまで重く受け止められてもなぁ……。そりゃー、筋挫傷も、重症だったりしたら、手術が必要になったり、後遺症が残ったりってことも、あるらしーけど。オレは、そこまで行かずに済んだんだしさー……。保科さんがいてくれなかったら、オレ、昨夜で死んでたかもしんねー――っんだ、し……)
そこで、はたと我に返る。
……そうだ。
自分の怪我が、大袈裟に騒がれてしまったせいで、すっかり忘れてしまっていたが……。
昨夜は、危ないところを、咲耶に助けられたのだった。
咲耶には、ちょっとやそっと礼をするだけでは、とても返せないほどの恩が出来てしまった。
だから、今朝咲耶を助けたのは、当然のことだし、もし、それが原因で死んでいたとしても、恩のある咲耶を助けられたのだ。むしろ、本望と言うべきものではないだろうか。
「そーだよ! オレ、昨夜あんたに、命を助けられたんだ! あんたを助けたのは、ただの恩返しってヤツじゃねーか! だったら……なっ? 何の問題もねーんだよ!」
結太はそう言い切ると、咲耶に晴れ晴れとした顔を向けた。
「そーだ、そーだよ! 昨夜の恩を、今朝返したってだけのことでさ! あんたが気にすることなんて、ひとつもねーんだって! だから……うん! この話はこれで終わりっ! それでいーじゃねーか」
力強い結太の言葉に、咲耶は呆然とし、しばらく無言で見つめ返していた。
だが、やがてフッと笑みを浮かべると、
「……そうか。おまえが、許すと言ってくれるのなら――」
「だーかーらーっ、許すも何も、これでおあいこだろ? お前からの借りを、オレが返した。それだけのことなんだって。万事解決! 後腐れなしっ!……うん。綺麗にまとまった。やーーーっとスッキリしたぁーーーっ」
「……フフッ。……なんだそれは」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑い合う。
まるで、昔からの知り合いのようだ。
二人の間にあった、張り詰めた空気のようなものが、一瞬で消えてなくなり……今は、柔らかい雰囲気に包まれている。
そう感じた瞬間。
桃花の胸に、鈍い痛みが走った。
自分には入り込めない空気感が、いつの間にか、二人の間に生まれてしまっている。――何故か、そんな気がした。
(楠木くん、すごく楽しそう……。昨日までは、二人とも……もっと、よそよそしい感じだったのに。咲耶ちゃんだって、楠木くんや秋月くんの前では、なんだか、トゲトゲしてたのに。今は……)
昨夜、二人の間に、何があったと言うのだろう?
結太は、『命を助けられた』とか、『恩返し』がどうとか言っていたが、それはいったい……?
――この時。
モヤモヤとした、自分では説明しがたい感情が、桃花の内で芽生えた。
その感情の名は、〝嫉妬〟――。
しかし、桃花がそれを理解するのは、もう少し先のことになる。
「では、少しの間、私は席を外させてもらう。――桃花。すまないが、楠木についていてやってくれ」
咲耶に名を呼ばれたが、考え込んでしまっていた桃花は、少し反応が遅れてしまった。
「えっ?……あ――、う、うんっ」
慌てて返事をしたものの、咲耶が『すぐ戻る』と言って出て行ってしまうと、結太と二人きり(戸口付近に鵲がいるのだが)だということに気付き、たちまち蒼くなる。
急に二人きり(鵲もいる)にされても、どうしていいかわからない。
結太は結太で、桃花が側に――しかも、二人きり(くどいようだが、鵲もいる)だと意識したとたん、体が熱くなり、心臓がバクバクし始めた。
お互いに、そろそろと、相手の様子を窺う。
瞬間目が合い、慌てて、違う方向へ顔を向ける。
そんなことを何度か繰り返し、気まずい沈黙が、しばらくの間続いた。
――が、突如として、あることが脳裏をよぎり、結太はハッと息を呑んだ。
(そーだ! 今こそ、誤解を解くチャンスなんじゃねーかっ?)
そのことに、ようやく思い至ったのだ。
結太は桃花を振り返り、思い切って、『あ――、あのっ!』と声を掛ける。
桃花は顔を上げ、再び結太と目が合うと、真っ赤になってうつむき……小さな声で、『は……はい。……なんでしょう?』と訊き返した。
結太はゴクリと唾を飲み、やはり、真っ赤な顔で桃花を見つめると。
「オレっ、伊吹さんに聞ーてもらいたいことがあ――」
トゥルルットゥットゥットゥットゥットゥットゥッ♪トゥルルットゥットゥットゥッ♪
「……あ……るん……」
トゥルルットゥットゥットゥットゥットゥットゥッ♪トゥルルットゥットゥットゥッ♪
「あるん……だ……」
トゥルルットゥットゥットゥットゥットゥットゥッ♪トゥルルットゥットゥットゥッ♪
「………………」
トゥルルットゥットゥットゥットゥットゥットゥッ♪トゥルルットゥットゥットゥッ♪
「だーーーーーッ!! いーよもーサギさんッ!! オレのことは気にしねーで、電話出ろよッ!!」
「はっ、はいっ!! すみません結太さんっ!!」
話の腰を折ってはいけないと、気を遣い、出ないでいてくれたのだろうが……。
ずっと呼び出し音を鳴らされていては、気が散って、話をするどころではない。
結太はハァ、とため息をつくと、
「ごめん、伊吹さん。話はまた、改めて……。別の日にでも……」
「あ、はい。……わかりました」
通話中の、鵲の大きな声をBGMに、二人は再び沈黙する。
結太はガクリと肩を落とし、間が悪いとしか思えない、鵲に電話して来た者を呪った。