第9話 結太、病室で蒼ざめる
結局、結太の母――菫は、『だから、〝クソババア〟はやめなさいって言ってんでしょっ』と、再び結太の頭をチョップし、放り投げた下着類を片付けると、『大人の話』があると言って、龍生と共に病室を出て行った。
結太は、『大人の話』というのは、まあ、早い話が、〝治療費〟やら〝入院費〟やら、金銭的な話のことなのだろうと、多少複雑な気持ちを抱きつつ、二人を見送った。
龍生に責任があると言っても、自分のために考えてしてくれたこと(結太は本気でそう思っている)なのだし、悪気があったわけではないのだ。
その結果がこれ(入院)だとしても、龍生側に全ての支払いをお願いするのは、申し訳ない気がした。
(……まあ、龍生側の人間――特にじーさんは、断ったところで、勝手に送金して来んだろーけど。……父さんの時も、そーだったしな……)
そんなことを思いながら、二人が出て行ったドアの方から、視線を正面へと戻す。
……と、そこで結太は、一気に現実に引き戻された。
戸口付近で、主人を待つ忠犬のごとく、直立不動の姿勢を保っている鵲を除くと、この病室には今、自分と桃花、咲耶しかいない――ということになる。
しかも、母親との恥ずかしいやりとりを、全て見られてしまった後だ。居た堪れないこと、この上ない。
(う……。ど、どーすりゃいーんだ、この状況? どーやって間を持たせりゃいーのか、さっぱりわかんねー……)
両脚を固定され、ろくに身動き出来ない状態のままで、結太は蒼くなってうつむいた。
病室を出た後、龍生と菫は、同じ階にあるラウンジへ向かい、ソファに腰を下ろした。
ラウンジには誰もいない。ここなら、落ち着いて話が出来そうだ。
菫は内心ホッとしていた。
「ホントにごめんねぇ、龍生くん。捻挫……じゃなかった。筋挫傷、だったかしら? とにかく、その程度の怪我で、個室使わせてもらっちゃって。結太なら、四人部屋とかでも、ぜーんぜん構わなかったのよ?」
申し訳なさそうな菫に、龍生は穏やかな笑みを浮かべながら、ゆるゆると首を横に振った。
「いいえ。結太に個室を用意したのは、こちらの都合ですので。どうか、お気になさらないでください」
相変わらず大人びた少年だわ、と菫は感心する。
幼い頃から見て来ているが、昔も今も、あまり印象は変わっていない。常に落ち着いていて、礼儀正しいままだ。
「それでね、入院費のことなんだけど……。半分こちらで払います、って言っても、あなたの御祖父様は、受け入れてはくださらないんでしょうね?」
「はい。それは間違いないと思います。……頑固ですので」
「……やっぱり、そうなっちゃうわよねー……」
苦笑しつつ、菫は龍之助の顔を思い浮かべた。
夫の時も、どんなに受け取れないと断ろうが、送金することを止めてくれなかったっけ――と振り返りながら。
菫の夫で、結太の父である楠木将太は、数年前に他界している。
将太は、腕の良い料理人だった。
その腕前を龍之助に気に入られ、結太が小学校に上がる年に、秋月家の専属料理人になったのだ。
要するに、結太と龍生は、それが縁で知り合ったわけだ。
将太は五年間、秋月家で、通いの料理人として働いていた。
秋月家との仲も良好で、何の問題もなく、時が過ぎて行ったのだが……。
ある日、過労が原因で、ぽっくり逝ってしまった。
死因が〝過労〟ということもあり、龍之助は、だいぶ責任を感じたようだ。
その証拠に、それ以降、結婚後は専業主婦となっていた、菫の再就職先を世話してくれたり、結太に掛かる学費を、援助してくれたりと、何かと世話を焼いてくれるようになった。
過労と言っても、龍之助に、もの凄い仕事量を押し付けられていたから、倒れたというわけではない。
もともと仕事一筋で、のめり込むと、他のものが一切見えなくなってしまうという将太の性格に、問題があったのだ。
倒れた時も、責任ある仕事を任されていて、夢中でその仕事に向き合っていたために、自らを追い込んでしまった。
結果として、命を落とすことになりはしたが、将太は決して、秋月家に対し、恨みを抱いてなどいないだろう。
むしろ、生前の彼は、やりがいのある仕事を与えてくれた龍之助に、心から感謝していた。
そんな夫を知っているから、菫はもちろん、将太の死の原因が秋月家にあるなどとは、露ほども思っていない。
龍之助にも、何度もそう伝えたのだが……。
彼は納得せず、未だに毎月欠かさず、結太への援助金を送って来ている。
突き返すわけにも行かない(何度か、直接返しに行ったことはあるのだが、頑として受け取ってはもらえなかった)ので、仕方なく、結太の将来のためや、何かあった時のためにと、一円も使用することなく、彼名義の口座に貯金してはいるが、心苦しいことに変わりはない。
龍之助には、深く感謝する一方で、悩まされ続けているというのも、また事実なのだった。
「ホントにねぇ……。再就職先をお世話してくださっただけでも、充分感謝してるって言うのに。他でもお世話になり過ぎちゃってて……。このままじゃ、天国で将太さんに会えた時、思いっきり叱られちゃうわ。『いくら何でも、図々し過ぎるぞ』って」
ため息まじりの菫の言葉に、龍生はフッと微笑む。
一度気に入ると、とことん世話したくなってしまう人なのだ。『お節介も甚だしい』と言われても、文句が言えないほどに。
「祖父が好きでしていることです。趣味のようなものですので、放っておいてやってください。菫さんが気にする必要はないですよ」
「ん~……。気にするなって言われてもねぇ。気持ちだけの問題じゃなく、ほら……実物が送られて来ちゃうわけだから。気にしないってのも、なかなか難しいのよねー」
……まあ、それもそうかと、龍生は苦笑してうなずいた。
だが、龍之助にそれを伝えたところで、同じように納得してもらえるとは、とうてい思えなかった。
菫には悪いが、老人のすることだからと、諦めてもらうしかない。
「じゃあ、まあ……申し訳ないけど、お金の問題は、お言葉に甘えさせていただくことにして……話題を変えましょう」
菫はコホンと咳払いし、姿勢を正すと、龍生をまっすぐ見つめた。
「――で、結局のところ……結太のお相手はどっちなの? 背の高い美人さんの方? それとも、小柄で童顔な、可愛らし~~~い子?」
菫の目は、どこまでも真剣だ。
お道化た調子で茶化してみても、息子の想い人のことは、やはり、無視出来ない問題なのだろう。
……さて。
正直に教えるべきか、知らないフリをしてごまかすか。――どちらを選ぶ方が得策だろうか。
曖昧な笑みを浮かべながら、龍生はしばし黙考した。