第4話 咲耶、龍生の抱擁で自分を取り戻す
龍生の腕に抱かれ、『惹かれてやまない、ただ一人の女性』などとささやかれてしまった咲耶は、しばらくの間思考が停止し、自分の身に何が起こっているのか、全く理解出来なかった。
ただ、誰かに抱き締められたのは、幼い頃以来(しかも、相手は両親や祖父母だけ)だったし、こんなに近くで人の体温を感じたのは、男性では昨夜の結太と、今の龍生くらいだった。
しかも、結太の体温は、自分の方がくっついていたから伝わって来たもので、抱き締められたから感じたわけでは、当然なく……。
こうして、抱き締められて感じる体温は、大きくなってからは、龍生が初めてということになる。
思考停止が解除された後、体温の次に咲耶が感じたのは、心音だった。
ドクッドクッと、妙に大きく、速く聞こえ――でもそれが、少しも不快に感じなかった。
その次に意識したのは、香りだ。――柔軟剤なのだろうか。ほのかに甘い、爽やかな匂いがした。
そしてごく僅かに、その他の……汗なのか、もしかしたら、体臭なのか。それらを思わせるものも混ざっていたが、これも不思議なことに、少しも嫌ではなかった。
最後は、体の感触。
見た目の印象だと、背は高いが、痩せていて、あまりがっしりした体格には思えなかったのだが。
そっと背中に手を回し、ペタペタと触ってみると、意外にも、筋肉の盛り上がりが感じられ、胸板にも厚みがあった。
ここまで来ると、咲耶の意識は、完全に〝高校生の保科咲耶〟に戻っていた。
龍生の告白めいたセリフも、すっかりどこかへ消えてしまい、興味も、他に移ってしまったようだ。
(何だこいつ? ヒョロ長いだけの、完全に温室培養された、ボンボンだとばかり思っていたのに……案外、鍛えているような体つきだな。……ん? ここは上腕三頭筋か。……うん、硬いな。……で、ここは大胸筋。……硬い。……ここは……何っ、腹直筋が割れているだと!? こいつホントにボンボンか!?……っと……いや、待てよ? 考えてみれば、腹直筋はもともと割れてるんだよな? 皮下脂肪が邪魔して、表面からはわからないだけで。……ということは、こいつのはただ、皮下脂肪が少ないってだけじゃないのか?……うぅむ……。しかし、他の部分の筋肉は、かなり鍛えられているようだったしな。だとしたら、やはり……本当に鍛えているのか?……何故だ? 何故、金持ちである上に、学校では『王子』と呼ばれ、普段からキャーキャー言われているような奴が、筋肉を鍛えなければいけないんだ? 男が筋肉を鍛えるのは、『モテたい』という願望が主だと、聞いたことがあるが……。こいつなど、何もしなくても、嫌と言うほどモテているだろうに。なのに何故、ここまで体を鍛える必要がある? スポーツ選手だと言うのであれば、話は変わって来るが……一切やっていそうにないしな。……うぅ~ん、わからん)
咲耶の〝ボンボン〟に対するイメージがどのようなものなのか、詳しくはわからないが、相当、軟弱な人種だと思っているらしい。
龍生に断りもなく、体のあちこちを触っては、筋肉の硬さに衝撃を受けていた。
「咲――……保科、さん?……ええと……何をしているの……かな?」
背中に手を回された時は、一瞬、想いに応えてもらえたのかと、胸が高鳴るほど期待した。
だが、やたらと手の位置が移動し、何かを確認しているかのごとく、触りまくられていることに気付くと、『……ああ。いつもの咲耶に戻っただけか』と理解し、同時にガッカリしてしまった。
それにしても……こんなに体を触られまくるのは、龍生も初めての経験だった。
しかも、このまま放っておいたら、〝セクハラ〟だと言わざるを得ないレベルにまで発展しそうで、少々、恐ろしくもなって来ていた。
「――ん? ああ……すまん。意外と鍛えてるんだなと、感心してしまってな。つい――」
先ほどまでの、〝幼児退行〟を思わせる変貌ぶりはどこへやら。
咲耶は呆気なく体を離すと、ケロッとした顔で言ってのける。
返す言葉も思い浮かばず、龍生はしばし固まっていたが、それにも気付くことなく、
「おまえ、ホントに何なんだその体は? 特別、スポーツをやってるようにも見えなかったが、家で何かやっているのか? 筋肉モリモリとまでは行かんが、何だ、その……あれか? ええと……そう! 〝細マッチョ〟とかいうヤツか? それを目指しているのか? そーか、そーなんだなッ!?」
一方的にまくし立てると、鍛えている理由を決めつけた。
(……あー……、ええと……。俺はいったい、何をしていたんだったか……?)
龍生は額を押さえ、予想外の咲耶の反応に、少なからず傷付いていた。
確かに、いきなり抱き締めたのは、軽い〝ショック療法〟のつもりもあった。
しかし、あのセリフは……龍生としては、覚悟を決めて言ったつもりだったのに、丸っきり無視され……まさか、筋肉がどうのとかいう、どうでもいい話に、すり替えられてしまうとは。
(いや――待て。……これでいいんだ。これが、現在の咲耶じゃないか。むしろ、あの言葉が咲耶の内に残っていない方が、こちらとしては都合がいい。……そうだ。そう思っておこう)
龍生は、何事もなかったかのように振舞うことを決め、一世一代の告白を封印すると、お決まりの王子様スマイルを浮かべた。
「べつに、何かを目指しているわけではないよ。特にスポーツもやっていない。……ただ、家がああだからね。幼い頃から、身を護るための術――護身術や武術などは、一応習ってはいたかな」
……自分は、うまく笑えているだろうか?
珍しくそんなことを気にしながら、龍生は平静を装った。
「ああ、なるほど! 護身術か!……ふむ。金持ちの家に生まれるというのも、案外大変なんだな。今まで、ただのヒョロヒョロのボンボンだなどと思っていて、すまなかった。反省しよう」
(……〝ヒョロヒョロのボンボン〟……)
ずっとそう思われていたのかと、また少し傷付いたが、龍生は懸命に笑顔を保った。
この程度のことを気にしていては、咲耶の相手は務まらない。
一方、言いたいことだけ言ってしまうと、咲耶はキョロキョロと辺りを窺い、
「――ん? そう言えば、楠木はどこへ行ったんだ? 確か、二人で迎えが来るのを、待っていたはずなんだが……」
結太が負傷したことまで、忘れてしまっているのだろうか。ふいに、そんなことを言い出した。
「結太は病院に運んでいる途中だ。ここで、落下して来た枝が脚に当たって、負傷しただろう? 君と一緒にいた時に負った怪我だ。覚えていないのか?」
龍生が問うと、咲耶は、きょとんとした顔で首をかしげた。
しかし、考えているうちに、思い出して来たのだろう。徐々に顔色が悪くなって行った。
「……そうだ。話していたら、突然、楠木に突き飛ばされて……尻餅をついてしまって……。文句を言ってやろうと顔を上げたら、木が……木の枝が、楠木の脚に……」
〝突き飛ばされた〟と言うことは、結太は、咲耶を庇って怪我をしたのか。
それでは、もし結太がいなかったら、咲耶が怪我を負っていたか……運が悪ければ、死んでいたもしれないのだ。
その事実に、龍生は改めてゾッとした。
結太か咲耶を、失っていたかもしれない未来。――そんなもの、考えたくもなかった。
「……どうしよう……私のせいだ。私が、もっと早く異変に気付いていれば……。秋月、私も病院に連れて行ってくれ! 私が行ったところで、今更どうにもならないことはわかっているが……あいつが心配なんだ!」
咲耶が、目の前で負傷した結太を心配するのは、当然のことだ。
ましてや、自分を庇ってということだったなら、尚更だろう。
しかし、それ以外にも、何か……。
もしかしたら、咲耶がここまで必死なのは、『ユウくん』とやらが、関係しているのかもしれない――。
悲痛な声で『ユウくん』と呼び続けていた、先ほどまでの咲耶の姿が、チラリと脳裏をよぎり、龍生の胸はチクリと痛んだ。
それでも、結太が心配なのは、龍生も同じだ。即座にうなずく。
「わかっている。だが、ヘリは既に、病院に向かって飛び立っているだろう。俺達が結太の元へ行けるのは、病院から、東雲が戻って来てからだ。それまで、ここで待っているしかない」
龍生の返答に、咲耶は焦れたような表情を見せたが、他に方法がないと悟ると、力なく肩を落とした。