第7話 唐突に悲喜劇の幕は開く
昼休みになった。
昼食は、いつも咲耶と教室で食べることになっているし、龍生も、『今度は僕が君のクラスまで行く』と言ってくれていた。
だから、ここで大人しく待っていればいいのだろう。桃花は自分の席に座り、鞄から弁当を取り出した。
ここは公立高校だ。学食などという、便利な設備はない。(公立でも、設備の整ったところはあるのかもしれないが、とにかく、この高校にはなかった)
生徒は弁当を持参するか、通学途中の店か購買で、パンなどを買ってくるかだ。他に選択肢はない。
桃花と咲耶は弁当組だ。
桃花の弁当は、いつも母親が。咲耶は毎日早起きし、自分で作っているらしい。
咲耶曰く、
「朝は犬を散歩させる。それが私の日課だ。弁当作りはついでにすぎない。べつに、大したことをやっているわけじゃないさ」
――だそうだが、桃花は朝が苦手なので、ギリギリまで布団の中だ。
完全に母親に甘えている桃花から見たら、咲耶は充分、『すごい人』のうちに入る。
「待たせたな、桃花!」
桃花がお弁当を机の上に出したところで、咲耶がやって来た。
……どうしたのだろう。大きく肩で息をしている。
「咲耶ちゃん……。もしかして、走って来たの?」
不思議に思って訊ねると、
「ああ、もちろんだとも! 一刻も早く、桃花の話が聞きたかったからな! 全力で走って来たぞ!」
何故か自慢げに胸を張ってから、いつものように、桃花の前の席に腰を下ろした。
ちなみに、桃花の前の席の生徒は、黒川くんという男子だ。
彼は他の場所で昼食をとるので、昼休み中、そこは空席になる。
だから、咲耶も遠慮なく、彼の席を借りることが出来るのだった。
「さあ、桃花! 朝の話を聞かせてくれ! 午前中は気になって気になって、授業どころじゃなかったんだからな。責任取ってくれなきゃ困るぞ」
「……せ、責任って……」
(ちょっと、オーバーなんじゃないかなぁ?)
心でつぶやき、桃花は『さあ、どうしよう?』と愛想笑いを浮かべた。
龍生がここに来るのは、昼食を済ませてからだろう。
それまでの間、話を逸らし続けなければならない。
「ま、まあ、咲耶ちゃん。その話は後にして、まずはお弁当食べちゃおうよ。わたし、おなかペコペコなの」
桃花は早口でそう告げると、『ね?』と可愛らしく小首をかしげた。
「ん?……ん、んぅ……まあ、仕方ないな。桃花を空腹のままにさせておくのは、忍びないからな」
「うん! ありがとう、咲耶ちゃん」
ニコッと笑って、桃花は弁当箱の蓋を開けた。
何度でも言うが、咲耶は桃花に弱い。
桃花が可愛くお願いすれば、大概のことは聞き入れてしまうはずだ。
今朝のことだって、桃花がウルウルの瞳で、
「ごめんね。今は言えないの。これには訳があって……。だからお願い。いつか話せる時が来ると思うから、それまで待って?」
とでも言えば、強くは出られないに決まっているのだが……。
いかんせん、桃花は、自分が咲耶の弱点などとは、露ほども思っていない。
だからこそ、〝龍生を頼る〟という無謀な選択をしてしまったのだ。
弁当を食べ終え、空の弁当箱を、持参した巾着袋に仕舞うと、咲耶は桃花を正面から見据え。
「よし! これで腹は満たされたな。早速、朝の話を聞かせ――」
「失礼。その話は、僕の方からさせてくれないか?」
「――えっ?」
「……はぁっ?」
桃花と咲耶。二人同時に、斜め上を見上げる。
いつの間に来たのだろう。龍生が横に立ち、二人を見下ろしていた。
「ええっ!?――秋月くんが、どうして!?」
「わざわざ、こんな普通クラスなんかに!?」
一斉に、教室内が色めき立つ。
一組と三組。――割り振られた数字が違うだけのように見えて、そこには大きな隔たりがあった。
一組は、国立大学合格間違いなしと太鼓判を押される、成績優秀者のみを揃えた、大学受験決定者組。いわば、エリートクラスだ。
それ以外は、その他大勢。成績の出来不出来、受験者不受験者関係なく、ごちゃ混ぜに編成されたクラスだった。
クラスが分けられているだけで、成績優秀者とそれ以外の生徒とが、差別されているようなことは、何もないのだが。
それでも、〝頭が良い人だけ揃えたクラス〟だと思うと、引け目を感じてしまうのが、一般生徒の心理というものではないだろうか。
日頃から引け目を感じている対象者、しかも、その中の最たる人物。おまけに、見た目も性格も完璧(実際、その評価には誤りがあるのだが)な秋月龍生が、いきなり一般クラスに現れたのだ。どよめきが起こるのも無理はなかった。
「貴っ様ぁ! 桃花のクラスにまでのこのこ現れるとは、どういうつもりだ!? 朝は朝で、図々しく桃花を車に同乗させよって! いったい、何を企んでいる!? 桃花によからぬことをしようとしているなら、絶ッ対に許さんぞッ!!」
ガタッと大きな音を立て、椅子から立ち上がった咲耶は、龍生をギロリと睨みつけた。
龍生はと言うと、いきり立つ咲耶を前にしても、波紋ひとつない水面のように穏やかだ。
「そうか。伊吹さんを駅まで送った時、保科さんは、既にあの場にいたんだね。伊吹さんに迷惑を掛けたくなかったから、目立たないところで降りてもらったつもりだったけれど……」
「なぁにが〝目立たないところ〟でだ! 駅前に、人目につかないような場所があるか! しかも、あんな大きな黒光りした車、目立たないでいられるわけがなかろう!?」
言われてみればその通りだ。
『目立たないところで降ろすから』
などと龍生に言われ、鵜呑みにしていたが……。
目立たない場所があったとしても、あの車が目立たないことなどあり得ないではないか。
(もしかして、他の人にも見られてたりしたのかな? だとしたら、めちゃくちゃ恥ずかしい……)
今更ではあるが、桃花はたちまち真っ赤になり、うつむいてしまった。
すかさず、それに気付いた咲耶が、
「どうした桃花!? 急に下を向いたりして……。ハッ! もしや腹痛? それとも風邪か? 発熱かっ?」
などと、大騒ぎし始める。
「ちっ、違うの咲耶ちゃん! そんなんじゃないからっ!」
「だったら、その顔は何だ!? 尋常じゃなく真っ赤だぞ⁉」
「そっ、それは……」
今朝のことを思い出してしまったから――と、桃花が返そうとした瞬間。
「ああ。朝のことを思い出したんだろう? 僕が君の家の前まで、交際を申し込みに行ったりしたから、驚かせてしまったよね。本当に申し訳なかった」
世間話でもするかのように、龍生がさらりと言った。
「…………へっ?」
予想もしていなかったセリフを吐かれ、桃花の体も脳も、数秒フリーズした。
「な――っ!……な……、なななっ、なぁにぃいいいーーーーーーーッ?」
その後、周囲に響き渡る咲耶の絶叫。
その他の生徒達の、悲鳴と怒号が入り混じったかのようなどよめきの中、桃花は呆然と龍生を見上げる。
(……交際、って……交際の申し込みって……。どっ、どーゆーことなんですか秋月くんっ⁉)
桃花の様子に気付くと、龍生はいたずらっ子の顔をちらりと覗かせ、周囲に気付かれぬよう、軽くウィンクしてみせた。