第9話 咲耶、結太の命を救うため尽力する
咲耶の〝低体温症〟についての知識は、とにかく、震えが止まらないうちは、まだ〝軽度〟だということだ。
これが〝中度〟になると、震えは減少し、〝重度〟になると、震えすら起こらなくなる。
つまり、軽度である今のうちに、どうにかして体を温めないと、結太は死んでしまう恐れがあるのだ。
(毛布があれば、一番よかったんだが……。無いもののことを、いつまでも考えていたって仕方ない。今出来る、最善の策を探そう)
そう思った時、ふと脳裏をよぎったのが、新聞紙による体の温め方だった。
咲耶はまず、捨てられていた五部の新聞紙を、一斗缶から取り出した。
他にも何かないかと中を覗くと、缶の底から、天の助けとしか思えないものを発見し、思わず『やった!』と声を上げる。
それは、ポリエチレン製のゴミ袋の束だった。
数えてみると、まだ十枚もある。
(よし! 新聞紙と大きなポリ袋。これさえあれば、あの方法が試せる! 実際にやったことはないから、どこまで有効な方法なのかはわからないが……。このまま為す術なく、楠木が弱って行くところを見ているよりは、ずっとマシだ。とにかくやってみよう!)
咲耶は新聞紙とポリ袋を持って、結太を横たえた場所まで戻ると、新聞紙を何枚か重ね、床に敷いた。
それから結太を振り返り、
「楠木。とりあえず服を脱――……げ、と言いたいところだが、その状態では、自分で脱ぐのは無理か……」
しばし考え込み、結太に向き直る。
「楠木。今から、おまえの服を脱がすぞ。いいな?」
突然伝えられ、結太はボーっとしながら、咲耶を見返した。
「服……を……脱が、す……?」
「そうだ。濡れた服を着たままでは、危険だからな。まずは、体温を奪うものを、排除せねばならん」
キッパリと告げる咲耶の目は、どこまでも真剣だった。
結太の朦朧とした頭でも、それだけは理解出来た。
「……ふ……く……」
数秒考え、結太は力なくうなずいた。
人に服を脱がされる――しかも、知り合って間もない女性に。
考えると、かなり恥ずかしいことだが、今は、そんなことを言っていられる場合ではない。
何せ、自分の力で脱ごうと思っても、体が動かせないのだから。
結太は、まだ死にたくなかった。
死んでしまったら、もう二度と、桃花には会えない。――それだけは、絶対に嫌だった。
「心配するな。私には、弟が二人いる。男の裸など慣れっこだ。安心して、身を任せろ」
そう請け負ってみたが、〝慣れっこ〟と言うには、少々無理があった。
咲耶には、確かに弟が二人いる。
しかし、二人とも小学校の低学年で、かなり年が離れていた。
小学生男児の体と、まだ少年とは言え、成人に近い男子の体では、大きな差がある。
咲耶とて、誰とも付き合った経験のない、年頃の少女だ。恥ずかしくないはずがなかった。
けれど、脱がせる側の咲耶が恥ずかしがっていては、結太はもっと、恥ずかしくなってしまうだろう。
そう思い、必死に虚勢を張っているのだ。
「じゃあ、行くぞ」
咲耶は結太の体を起こし、自分にもたれ掛からせると、後ろから抱き抱えるようにして、シャツのボタンを、上から順に外して行った。
それから、右手側と左手側の袖を順々に脱がし、脱がしたシャツを脇に置く。
次に、新聞紙を一枚はがして、何度か片手でバサバサと払ってから、髪と体の水分を、そっと押さえるようにして拭き取った。
「この新聞紙も、どれくらいの期間、置かれていたのかわからないからな。少々埃を被って、ダニなんかもいるだろうが……。今は、そんなことを気にしていられる時じゃない。許せよ?」
そうやって話し掛けながら、上半身を拭き終わると、先に敷いておいた新聞紙の上に横たえらせ、また一枚新聞紙をはがして、体の上に被せた。
「後で、もうちょっとちゃんと、布団のようにしてやるからな。少しだけ我慢してくれ」
残るは結太の下半身――ハーフパンツを脱がせるだけだが、さすがに抵抗があった。
恐る恐る、ボタンとファスナーを下ろした後は、再び上に新聞紙を被せ、自分には見えないようにして、ハーフパンツに手を掛けた。
「だ、大丈夫だからな? 新聞紙を被せたから、私には何も見えてないんだからな? は、はっ、恥ずかしがることないぞ!? ホントに全然、見えてないからなっ!?」
そう言いながら、咲耶は慎重に、ハーフパンツと下着(同時に脱がした方が、恥ずかしさが少ないと考えたのだ)を下ろして行った。
それから靴と靴下を脱がし、もう一度、全身を丁寧に拭く。
拭き終わった時、咲耶の額には汗が滲み、大仕事を片付けた後のように、肩で息をしていた。
恥ずかしさと、緊張と。
その他、様々な思いが絡まり合って、逃げ出したい気分だったが、仕事はまだ終わっていない。
数枚重ねて敷いた新聞紙の上に、再び結太を横たえると、咲耶は彼の体に、新聞紙を巻いて行った。
胸部、腹部と臀部、左右の腕と足に、ぐるぐるぐると、何枚も、折ったり重ねたりしながら。
全ての部位に巻き終えたら、ポリ袋の底の真ん中と、両脇の上部辺りを噛みちぎり、両手で横に引っ張って、穴を広げる。底側を上に向け、真ん中の穴から、結太の頭を通し、両脇の穴から、右手と左手を通した。
その後、下の開いた部分を、太ももの上部辺りで縛り、左右の腕と足にも、別のポリ袋をスッポリと被せてから、腕は肩、足は太ももの中央辺りで縛った。
かなり不格好になってしまったが、体を温めるためだ。仕方ないと諦めてもらおう。
「……フゥ。体はこれで良し――っと。後は、布団代わりになるものだな」
つぶやくと、咲耶は新聞紙を揉みほぐしてクシャクシャにし、軽く丸めてから、ポリ袋に放り込んだ。
これを何度か繰り返し、ある程度溜まったら、結太の両足を袋に入れ、膝上辺りで縛る。
後は、新聞紙数枚を重ね、結太の体全体に被せれば、ひとまず完了だ。
もう少し新聞紙とポリ袋があれば、敷布団の代用も作れたのだが……。
咲耶の体を温める分も、少しは残しておかなければならない。これが今、結太にしてやれることの限界だった。
咲耶は結太に近寄って、頬をペチペチと叩く。
「おい、どうだ楠木? 少しは温かくなったか?」
結太は懸命に口角を上げ、笑みを浮かべようとしている。
答えるまでの気力はないが、笑顔を見せることで、咲耶を安心させようとしているのだろう。
「辛いだろうが、まだ眠るなよ? 体が冷え切った状態で眠ると、危険だそうだからな。眠るのは、体に温かさが戻って来てからだ」
頬を軽く叩きながら訊ねる咲耶に、結太はごく僅かに、顎を下げてみせた。了解という意思を示したのだろうか。
「よし。絶対に眠るなよ? いいな?」
咲耶はもう一度念押しした後、結太から少し離れた場所に行き、服を素早く脱ぎ捨てた。
そして、今度は自分の体に、新聞紙を巻き始めるのだった。