第3話 桃花、咲耶の身を案じ部屋を出る
咲耶が部屋を出て行ってから、一時間は過ぎただろうか。
桃花はさすがに心配になり、様子を見に行こうと部屋を出た。
本来なら、咲耶が向かった場所には、桃花が行くはずだったのだ。
しかし、夕食後、宝神からこっそり渡されたメモ帳の切れ端を、咲耶に見つかり、読まれてしまった。
「ここに書かれている場所へは、私が行く。桃花は、部屋で待っていてくれ」
咲耶に告げられ、桃花が何故かと訊ねると、
「こんな勿体ぶった呼び出し方をする奴は、秋月に決まっている! 絶対、また何か企んでいるんだ! そんな危険な場所に、桃花一人を行かせてなるものか!」
そう主張して、止めるのも聞かず、出て行ってしまったのだ。
宝神から渡されたメモ帳の切れ端には、
『今夜八時
エントランスにお出でください。
そこから先は、待機している者の
指示に従ってくださいますように。
あなたを、素敵な場所に
ご案内いたします』
というようなことが書かれていた。
(今更エントランスに行っても、もう、誰もいないだろうけど……。他に手掛かりがないんだし、一応行ってみよう)
桃花は周囲の様子を窺いながら、そろりそろりと階段を下りた。
思っていた通り、エントランスには誰もいなかった。
仕方がないので、事情を知っているであろう、宝神の元へ向かうことにする。
キッチンには、既にいないかもしれないが、他に思い浮かぶ場所もない。
いなかったら、別荘中を捜し回らなければならないが、とにかく、行くだけ行ってみよう。
そう思い、ダイニングルーム前を通り過ぎようとした時だった。
ドア越しに、誰かが大声で話している声が聞こえ、思わず足が止まった。
(今の声――。男の人の声だけど、鵲さんじゃないよね?……たぶん、午後にエントランスでお会いした、東雲さん――だと、思うけど……)
桃花はドアにピタリと張り付き、耳を澄ませた。
立ち聞きなど行儀が悪いとは思ったが、咲耶の行方について、今は少しでも情報が欲しい。
「あーっ、美味え美味え! やーっぱ、お福さんの料理は絶品だなぁ!!」
どうやら、遅い夕食をとっているようだ。食べながら、料理を絶賛している様子だった。
――ということは、側に宝神がいるのだろうか?
それにしても、東雲の話し方は、最初の印象とかなり違っていた。
午後に会った時は、もっと丁寧な口調だったはずだが、今はだいぶ砕けている。
……まあ、秋月家の使用人同士、親しいからこそ、そうなってしまうのだろう。
かなり年下である桃花達に、敬語で接してくれているのは、主人である、龍生の友人だからなのだ。
「はいはい。ありがとう、虎ちゃん。あんたは、いつもそうやって美味しそうに食べてくれるから、アタシも見ていて楽しいよ」
こちらは宝神だ。――やはり、いつもより砕けた口調だった。
「いやいやー。ほんっと、マジで美味えからだって! 今日は二回も、無人島とここと、ヘリで往復したからさー。疲れちまってよー。……ま、往復でも、ニ十分と掛かんねー距離なんだけどな」
アッハハハと、東雲らしき男は、豪快に笑っている。
だが、すぐに暗めの声色になり、
「……ハァ。しっかし、俺も歳かねぇ? 昔はこれくらい、どーってことなかったのによぉ。ヘリ二往復で音を上げるたぁ、なっさけねーよなぁ……」
今度は、ションボリしてしまっているようだ。
すると、『イテッ!――イテテテッ。やめろって、お福さん!』という声の後に。
「なーに言ってんだい! あんた、まだギリギリ二十代なんだろ? アタシなんざ、七十か八十かって言ったら、八十の方に近い年齢なんだよ? アタシの三分の一くらいしか生きてないクセにさ。気が滅入るようなこと言ってんじゃないよ」
宝神に活を入れられたらしい東雲は、『それもそうだな! お福さん、その歳でまだまだ元気だもんなー。俺も見習わなきゃいけねーなー』などと言い、アハハハハと笑っていた。
(なんだか、すごく仲良さそう。秋月くんのお家の人達って、みんな良い人っぽいし、働いてても楽しそう。きっと、このお家の雰囲気が……秋月くんや秋月くんのお祖父さんが、良い人だからなんだろうな。皆さん、秋月くんのこと大好きみたいだし……)
龍生は、今までの印象から考えても、裏表がある性格であることは、間違いないだろう。
だからと言って、決して悪い人間ではないはずだと、桃花は信じていた。
そう信じられるのも、この秋月家で働く人々が、皆良い人そうで、龍生のことも、すごく慕っているように感じられるからだった。
(秋月くんが悪い人だったら、こんなに良い人達が周りにいるわけないし、その人達が、いつも笑っていられるはずないもの。咲耶ちゃんは、きっと誤解してるんだよ。だから過剰に反応して、わたしに過保護になっちゃうんだ)
龍生と咲耶が、もっと仲良くなる方法はないのだろうか?
龍生は、桃花が〝お試し〟で付き合っている相手なのだし、その人と親友が仲が悪いというのは、桃花にとっては辛いことだった。
(でも、わたしなんかより咲耶ちゃんの方が、秋月くんにはよっぽどお似合いだよね。咲耶ちゃんは美人だし、秋月くんも美人……あ、男の人はカッコイイ、かな。えっと、とにかく、すっごい美男美女カップルになれると思うのに……)
桃花がそんなことをつらつらと考えていた時、急に大きな音がして、
「あああッ!?――な、なんだこの音!?……風か!?……いや、雨もか!? まさか、そんな……嘘だろーーーーーっ!?」
東雲らしき男が、にわかに大騒ぎし始めた。
どうやら、先ほどの大きな音は、東雲がテーブルから立ち上がった時、椅子が倒れた音だったようだ。
宝神が、『どうしたんだい、虎ちゃん? いきなり立ち上がるから、ビックリしちまったよ。窓辺に駆け寄ったりして、何をそんなに慌ててるんだい?』などと話し掛けている。
「ヤベーよお福さん!! さっきまであんなに晴れてたってーのに、いつの間にか雨降ってやがるし、風もすっげー強まって来てる!」
「何だって!? だってアンタ、結太坊ちゃんと、あの綺麗な……ええと……」
「保科様だよ!! 結太さんと保科様を、さっき、あっちの無人島に送り届けて来たんだよ!! 十時前に迎えに行く予定だったってのに、こんな天気になっちまったら、ヘリが飛ばせねえ!!」
「ええっ!?……ど、どーすんだい!? あっちの島には、砂浜と森以外、何もないって話じゃないか! 雨風はどーやって凌ぐんだい!?」
「わかんねーよ!! 俺だって、まさかこんな天気になるなんざ、これっぽっちも思ってなかったんだからよ!!……と、とにかく、天気予報確認してくらあ! 坊ちゃんへの報告は、その後だ!」
「あ……ああ、そうだね。ちゃんとしたことがわかってからの方がいいね。すぐに晴れるかもしんないしさ」
「んん……、すぐ晴れる、か……。それはちっと、期待薄って感じすっけど……。でもまあ、とにかく、天気予報確認すんのが先だ!」
東雲の足音が近付いて来て、ドアが中側から開け放たれた。
「――っ、ぅわあぉうッ!?……い、伊吹様っ!? こんなところで、何を――!?」
奇妙な叫び声に続き、戸惑ったような、東雲の声が降って来る。
だが、二人の会話の途中から、頭が真っ白になってしまっていた桃花の耳には、音がするのを感じ取ることしか出来なかった。それくらい、動揺していた。
ただ怖くて、寒気までして来て、自分の体をギュッと抱き締め、桃花はその場に立ち尽くしていた。
「お福さん! 伊吹様の様子が変だ! 悪いが、ちっと見てやってくれ!」
「ええっ? 伊吹様が、そこにいらっしゃるのかい?」
「ああ!……けど、なんか変なんだ。話し掛けても答えちゃくんねーし、プルプルと、子犬みてーに震えてる!」
東雲は宝神に声を掛けると、桃花の肩にそっと手を置く。
「それでは、伊吹様。俺は用事がありますので、これにて失礼いたします。何かございましたら、お福――宝神に、何なりとお申し付けください。それではっ!」
早口で告げた後、廊下をもの凄いスピードで駆けて行き、あっと言う間に見えなくなった。
桃花の元へは、すぐに宝神が駆け付けて来て、優しく肩を抱き、中へと誘う。
それから、テーブルの椅子を引いて、座るよう促すと、桃花が落ち着くまで、優しく両手を握っていた。