第9話 結太、桃花を咲耶に連れ去られ呆然とする
衝撃的な場面が信じられず、呆然としてしまっていた咲耶だったが、それは結太も桃花も同じだったらしい。
双方一言も発さない時が、十数秒ほど続いた。
沈黙の後、最初に口を開いたのは桃花だった。
「さっ、咲耶ちゃん違うのっ! これは…っ、これはあのっ、えっと……」
何か言いたいことがあるのだろうが、桃花自身混乱しているのか、スムーズに言葉が出て来ない。
口ごもる桃花を前に、結太もようやく我に返り、覆い被さっていた体を慌てて離すと。
「ごっ、ごめん伊吹さんっ!! オレっ、あの…っ、そんなつもりじゃなくてっ」
「うっ、うん! だいじょーぶっ、わかってるからっ」
二人は何やらあたふたと、お互いにしか通じない話をし始めた。
そこで咲耶は、プツンと、自分の中の何かが切れる音を聞いた。
「桃花ッ!! ここにいてはダメだッ! 早く部屋に戻るぞッ!」
言いながら、まだベッドの上にいる桃花に近付き、片手を荒々しく掴んで引っ張る。
「痛っ!――咲耶ちゃん、待って? わたし、まだ楠木くんに話が……っ」
「ダメだッ!! ここでは話すなッ!!」
咲耶の一喝に、桃花はビクッと肩をすくめ、目をつむった。
「……咲耶……ちゃん?」
恐る恐る、再び目を開けると、咲耶は、今まで桃花が見たことのない――向けられたことのない、厳しい顔つきをしていた。
「あの……何か、怒ってる……? え、と……もし、今見たことで怒ってるんだったら、違うのっ。楠木くんはね、わたしが――」
「そういうことじゃないッ!!」
「――っ!……咲耶ちゃ……?」
咲耶の苛立ったような声に、桃花は困惑した。
咲耶は、自分の心に嘘がつけるタイプではない。
だから今までにも、何かに対し、怒りを露わにしたことはあった。
だが、それはいつも、桃花以外に対してであって、桃花自身に怒りを向けられたことなど、一度もなかった。
それなのに、今の咲耶は、桃花に対して怒っているように思える。
(わたし、そんなに咲耶ちゃんを怒らせるようなこと、しちゃったのかな……?)
ずっと咲耶に甘やかされて来た桃花にとって、これは初めての体験だった。
彼女の怒りの原因が何であるのか、いくら考えてみても、正解に近いであろう答えには辿り着けず、すっかり、心細くなってしまっていた。
「とにかく、ここはダメだ!! 話したいことがあるなら、別のところで話せ! いいな? 頼むから約束してくれ、桃花!」
咲耶は桃花の両手を取り、ギュッと握ると、今にも泣き出しそうな表情で懇願した。
こんな弱々しい咲耶を見るのも、初めてだった。
桃花は更に動揺し、ただただ、安心させたい一心で、こくこく首を縦に振った。
「そうか、わかってくれたか!――では、行こう!」
結太には少しも目もくれず、咲耶は桃花の手を引き、部屋を出て行こうとしている。
そこで焦った結太は、『伊吹さん!』と声を掛けてしまったのだが、咲耶に敵意丸出しの顔で睨まれ、それ以上、何も言えなくなってしまった。
二人が去った後、一人残された結太は、ベッドの上で呆然としてしまっていたのだが。
しばらくの後、
「あああーーーッ!! またやっちまったあああーーーーーッ!! せっかくのチャンスを……誤解を解くチャンスをぉおおおおおッ!!」
体を丸め、ベッドを拳でバンバン叩きながら、結太は己の要領の悪さを呪った。
誤解を解くどころか、話さえまともに出来なかった。
……いや。
話どころか、最初に妙な妄想をしてしまっていたせいで、恥ずかしくも情けなく、桃花の顔さえ、まともに見られなかったではないか。
おまけに、自分からかなりの距離を置いて……。
あれでは、桃花に訝しがられ、心配されてしまって当然だ。
あの時。
桃花に背を向けて座っていた結太には、彼女がいつの間にかベッドに上がり、ハイハイをするようにして、背後まで近付いていたことがわからなかった。
だから、『このままじゃ誤解を解くどころか、新たな誤解を生んじまうんじゃねーか?』と焦って振り返ったとたん、すぐ側まで来ていた桃花と、ぶつかってしまったのだ。
そしてその拍子に、お互いがバランスを崩し、結太が桃花の体に覆い被さるような形で、倒れ込んでしまった。
……というのが、咲耶がドアを開けた瞬間に目撃したことの真相だ。
だが、あの態勢では、〝結太が桃花に襲い掛かっている〟ように見えてしまったとしても、無理はない。
咲耶は、完全に誤解してしまっているだろう。
憎しみのこもった目で睨みつけられ時に、結太はそれを覚った。
(あー……マズいマズい。ぜってーマズいよな、この状況? 伊吹さんと仲の良ー保科さんに、悪印象持たれちまった。……もう、伊吹さんに近付くことすら、許してくんねーかもしんねー……)
ベッドに突っ伏し、ひたすら落ち込んでいると、スマホから着信音がした。
結太は突っ伏した体勢のまま、ハーフパンツのポケットの中に片手を突っ込み、スマホを取り出すと、
「……はい」
覇気のない声で応答する。
すると、開口一番、
『すまん、結太』
珍しく、龍生が謝罪の言葉を口にして来て、結太の頭は『?』だらけになった。
「……あ? 何いきなり謝ってんだよ? 明日は雪か? 猛吹雪か? 今はまだ春だぞ。異常気象は勘弁してくれ」
落ち込んでいる状態ではあるにせよ、龍生が謝って来ることなど滅多にないので、自然と、そんな言葉が口を衝く。
龍生は軽くスルーして、
『保科さんが行っただろう?』
とだけ訊いて来た。
「は?……ああ、まあ。……今、出てったけど……」
『伊吹さんを連れて、だな?』
「え?……ああ、うん……」
沈んだ声で肯定すると、深いため息の音が聞こえた。
実は、これも珍しいことだった。
わざとらしくため息をついてみせ、『バカだな』などと言って来ることはしょっちゅうなのだが、本心からのため息は、人に聞かれることを良しとしない。それが、秋月龍生という人間だった。
参っていることや、困っていることなどは、他人には一切知られたくない。涙を見せることも、弱みを見せることも、極端に嫌う。
そのどれもが、プライドの高さから来るものなのだろう。
龍生のように、敵意や嫉妬など、負の感情を向けられやすい家に生まれると、弱みを見せたとたん、一斉に攻撃されたり、非難されてしまう恐れがある。
だから、好むと好まざるとにかかわらず、自然とそういう性格になってしまうのかもしれない。
長年の付き合いで、それを理解している結太は、彼のそんな性質も、特に気にすることはなかったのだが……。
プライドの高い龍生が、どうやら、心底参っているらしい。
素直にため息を聞かせて来るのが、その証拠だ。
結太は丸まっていた状態から、むくりと体を起こし、
「何だ? マジでどーかしたのか? おまえがそんな風にため息つくの、珍しーじゃねーか」
心配になって訊ねると、龍生は数秒の沈黙の後、
『ああ。今回ばかりはお手上げだな。完全にしくじった。保科さんをこちら側に引き入れて、おまえの恋の成就のために、協力してもらうはずだったんだが……』
「えっ、保科さんを引き入れる!? でもって、オレの恋に協力!?」
興奮する結太に、龍生は再びため息をつく。
『……そのはずだったんだが、な。かなり怒らせてしまって、計画は水泡に帰したよ。協力どころか、大きな障害になる可能性も出て来た。だから……すまない、結太。今まで以上に困難な状況になってしまったが、恋は自力で勝ち取ってくれ』
「今まで以上に……困、難……? 自力で……勝ち取る……?」
オウム返しでつぶやくと、結太はみるみるうちに真っ蒼になった。
「えええーーーーーッ!? 今までだって充分困難だったってーのに、さらに困難になっちまったのかーーーーーッ!?」
先ほどの咲耶の表情を思い返し、結太は絶望的な気分になった。
龍生がどんなことをやらかし、彼女を怒らせてしまったのかは知らないが……その後でまた、あれを見られてしまったワケだ。
(……ダメだ。これっぽっちも、うまく行く気がしねー……)
誤解すら、まだ解いていないというのに。
咲耶に悪印象を植え付けてしまった後では、これから先、何をしようにも、絶対邪魔されるに違いない。
前途多難な恋路に打ちのめされ、結太は、ベッドに頭突きする勢いで突っ伏した。