第8話 咲耶、龍生の卑劣な行為に戦慄く
受信機から聞こえて来たのは、間違いなく、桃花の声だった。
桃花は今、結太と共にいるのだ。
部屋を慌てて出て行ったのは、結太に会いに行くためだったのか。
少なからずショックを受けている自分に気付き、咲耶はハッと我に返った。
――違う。
今はそんなことを気にしている場合ではない。
ここでの、最大の問題は――……。
「秋月ッ!! 貴様、いったいどういうつもりだ!? 何故こんなことをする!? 桃花と楠木の会話を盗み聞きして、どうしようと言うんだ!?」
受信機を握り締めた咲耶の手は、僅かに震えていた。
恐怖からではない。
怒り、失望、嫌悪。それらの感情が胸の奥で絡み合い、渦巻き、大きな負のエネルギーとして排出されそうになっていたのを、すんでのところで堪えていたため、体に無理が生じたのだ。
咲耶は、震える手を胸元に押し付けるようにし、必死に平静を保とうとした。
感情的になり過ぎては、真実は掴めない。――そんな気がしていた。
「答えろ秋月ッ!! 何のためにこんなこ――っ」
「伊吹さんの本心を知るためだよ。これが一番手っ取り早いだろう?」
龍生の返答に、咲耶の我慢も限界に達した。
「ふ――っざけるなぁあああああッ!!」
叫ぶと同時に、受信機を持った手を高く振り上げ、満身の力を込めて、床へと叩き付ける。
床で僅かに弾んだ受信機は、それでもビクともせず、二人の声は、まだハッキリと聞こえて来ていた。
壊してしまうつもりだったのに、何たる頑丈さだろう。
悔しくて、咲耶は思わず呻き声を漏らした。
その様子を見ていた龍生は、クッと吹き出し、
「その程度で壊れるようなもの、この僕が用意すると思う? 足で踏み付けて壊そうとしたって、無駄だろうね」
どこまでも冷静な言い草に、更にカッとなり、咲耶は受信機を素早く拾い上げると、
「なら、これはどうだぁああああああッ!!」
叫びながら、入り口とは違う場所にあるドアへと突進し、大きく開け放つ。
やはりトイレだったと覚ったとたん、咲耶は素早く蓋を開け、ためらうことなく受信機を投げ入れた。
水に没した受信機からは、何も聞こえない。
「――よしっ!」
とっさに拳を握り締め、成功を喜んでしまったが、こんなことをしている場合ではない。
咲耶はトイレを出、今度は出入り口のドアの方へ突進すると、龍生には何も告げぬまま、何処かへと走り去った。
部屋に残された龍生は、咲耶の出て行ったドアから顔を背けると、深々とため息をついた。
「……また失敗、か。今度こそ、完全に嫌われたな」
つぶやいた後、片手を顔の前まで持って行き、ハンカチが巻かれた人差し指を、じっと見つめる。
外見からの大人っぽいイメージとは違う、可愛らしい柄が目に入ったとたん、笑みがこぼれた。
「まさか、ハンカチが子犬モチーフとはね。……意外に子供っぽい趣味なんだな」
くつくつと思い出し笑いのような声を漏らすと、龍生は大事なものを愛おしむように、もう片方の手で、ハンカチの巻かれた人差し指を包み込んだ。
目を閉じ、しばし、何事かに思いを巡らせる。――その顔には、もう笑みは浮かんでいない。
彼は再び目を開けると、人差し指に巻かれたハンカチに顔を近付け、キスするかのように、優しく唇を押し当てた。
「桜……」
龍生の口からこぼれた言葉は、『さくや』ではない。確かに、『さくら』と聞こえた。
その言葉が、何を意味するのか。
――人の名か。それとも、樹木の桜のことなのか。
その答えは、龍生の心にしかなかった。
その場にしばらく立ち尽くしていた龍生は、ふいに顔を上げ、咲耶が開け放ったままのトイレのドアへ歩み寄り、中を覗いてため息をついた。
それから、上着の胸ポケットに手を入れ、スマホを取り出すと、画面をタップし、耳元へ当てる。
「――鵲か。悪いが、今すぐ女性用の客室に来てくれ。頼みたいことがある。……ああ、そうだ。伊吹さんと保科さんを運び入れた部屋だ。……ああ。実は、トイレに受信機を落としてしまったんだ。使い捨てのゴム手袋か、何かあるだろう? それでも用意して、拾っておいてくれないか。……ああ。悪いな。俺は他に用があるから、もう部屋を出るが、おまえがここに来る前に、伊吹さんと保科さんが戻って来てしまっていたら、俺に用を頼まれたと言って、部屋に入れてもらってくれ。……ああ。じゃあ頼むぞ」
通話を切り、胸ポケットにスマホを仕舞って、龍生は部屋を出た。
両手を腰に当て、その場で少し考え込むように目を閉じると、
「……さあ。これからどうするか――」
つぶやいて、再び目を開ける。
こんなところでモタモタしている場合ではない。次の手を考えなければ。
まだ時間はあるにせよ、途中でまた、どんな問題が起こるかわからないのだ。
とりあえず、落ち着いて考える時間が必要だ。
龍生はそう結論付けると、自分が泊まるための部屋に向かい、足早に歩き出した。
時間を数分前に戻そう。
部屋を飛び出してから咲耶が向かったのは、結太が運び込まれた部屋だった。
受信機は、トイレで水浸しになり、使い物にならなくなった(と思われる)ものの、敵はあの龍生だ。他にもまだ、怪しいものを用意しているかもしれない。
(一刻も早く、桃花をあの部屋から救い出さねば! あんな卑劣な人間に、桃花の気持ちを盗み聞きさせるなど、絶対に許さん!)
咲耶は全速力で廊下を駆け、結太と、桃花がいるはずの部屋の前で足を止めた。
(待ってろよ、桃花! 今助ける!)
その思いだけでいっぱいになっていた咲耶は、ノックもせず、いきなりドアを開け放った。
「桃花ッ!! ここは危け――っ」
言うはずだった『危険だから、私達の泊まる部屋に戻るぞ』と言う言葉は、最後まで発することが出来なかった。
それを目にしたとたん、咲耶の息は止まり、心は凍り付き、心臓は大きく跳ね上がった。
目の前の光景が、信じられなかった。
……いや。信じたくなかった。
ドアを開けた咲耶の目に、真っ先に飛び込んで来たのは――結太と桃花が、ベッドの上で重なり合っている姿だった。