第6話 咲耶、一人きりの部屋で苦悩する
桃花が出て行ってしまった後、咲耶は部屋のベッドに体を投げ出し、天井を睨んでいた。
いろいろなことがあり過ぎて、少し混乱している。
このまま眠ってしまいたかったが、体は休息を求めていても、脳は求めていないようで、眠気は全く感じなかった。
(ああ、疲れた……。まったく、今日は散々だったな。桃花がくれたプレゼントのお陰で、少し浮上出来たが……)
咲耶は視線を横に投げ、サイドテーブルの上に置かれた、桃花のプレゼントをじっと見つめた。
桃花が部屋を出て行く前、『咲耶ちゃん。これ、受け取ってくれる? 今日ね、咲耶ちゃん達がいない時に作ったの。クッキーなんだけどね。咲耶ちゃんの他に、秋月くんとか、秋月くんのお家で働いてる人達とか、お世話になってる人にって思って作ったから、いつもより甘さ控えめなの。咲耶ちゃんの好みとは、ちょっと違うかもしれないんだけど……』と言って、渡してくれたのだ。
桃花がくれた物ならば、好みに合おうが合うまいが、いっこうに構わない。
咲耶は当然喜んで、そのプレゼントを受け取った。
「秋月達の好みに合わせて……というのが、少々気に入らんがな」
ポツリとつぶやくと、咲耶はベッドから体を起こした。
手を伸ばして、プレゼントを手に取る。
美しい花柄の包装紙で包まれ、赤いリボンを付けられたその小箱は、咲耶の心を温め、また、鈍い痛みを与えた。
(ほんの数日前までは、桃花と私、二人だけの世界だったのに。そこに、秋月が現れ、楠木が現れ……桃花の世界は、どんどん広がって行く。私だけでは、なくなって行く……)
それは当たり前のことだ。
誰だって、大人になるにつれて、世界も広がり、交友関係も広がって行く。
いつまでも、狭い世界で生きて行くことなど出来ない。
咲耶とて、それはわかっている。
きっと桃花も、それを望んでいる。
だからこそ、秋月と〝お試し〟で付き合うことを決めたのだ。
(わかっている。変わらなければいけないのは私の方だと。桃花はとうに、私とは別の道を行くことを、自然なことだと理解している。私ではない、別の者の手を取って、この先を歩いて行くことを、受け入れているんだ。いつまでも変われないのは……変わりたくないと願ってしまっているのは、私だけ……)
咲耶は服のポケットに片手を突っ込み、龍生が協力させるために撮った、自分の〝弱み〟が写っている写真を取り出した。
それを、桃花からのプレゼントの小箱の上に乗せ、虚ろに眺める。
そこには、咲耶の部屋の本棚が写っていた。
その本棚に並んでいるのは――咲耶が愛読している、百合(GLとも呼ばれる)小説や漫画、数百冊だった。
百合(またはGL)とは、女性同士の絆や愛のことを表す言葉で、それらを題材とした作品を、百合小説やGL漫画などと呼ぶのだが、咲耶は小学校の高学年の頃、これらに出合い、すっかり夢中になってしまった。
百合作品にも、友情の延長線上にあるような、性愛的な描写の一切ないものから、性愛的な意味合いの強いものまで、様々な種類がある。
咲耶は、まだ大人になる前の、少女同士の淡い恋や、プラトニックな愛が描かれた作品が、特に好きだった。
このような作品は、数はそれほど多くないにしても、昔からあるジャンルだ。
これらが好きだからと言って、咲耶にとっての弱点になるなどとは、とうてい思えない。
むしろ、一部の咲耶と桃花のファンが、この事実を知ったら、手放しで喜ぶことだろう。
龍生の、『この程度のことを他人に知られることが、君にとって、そこまで大きな打撃になるとは思えない』との発言は、あながち、嘘でも気休めでもないのだ。
だが、咲耶は恐怖していた。このことを知られることを。
他人に――ではない。桃花に知られることを、何よりも恐れていた。
それは何故か?
――問われても、咲耶自身にも、実はよくわかっていないのだ。
そうなのではないか――との、自分なりの考察はある。
あるにはあるのだが……それを真実として受け止めることも、咲耶はまだ出来ないでいた。
(桃花に対するこの気持ちが、果たして何なのか……私はまだ、決めかねている。友愛と呼ぶには、あまりにも強い気もするし……。かと言って、恋などと呼ぶには、なんとなくだが、決め手に欠ける気も……)
この気持ちに、きちんと名前が付けば……。
……いや。
ハッキリと友愛であるとわかったのなら、この趣味のことも、桃花に打ち明けられる気がするのだ。
だが、桃花に対する気持ちが、もしも恋だったとしたら……?
この趣味は、たちまち後ろめたいものへと変化する。
そんな気が、どうしてもしてしまうのだ。
(……ああ、煩わしい。恋だの愛だの――こんな面倒なこと、考えていたくもないのに。私はただ、出来るだけ長く、桃花と共にいたいだけだ。……ただ、それだけなんだ)
桃花からのプレゼントを、胸にギュッと抱き締めた、その時。
誰かが、ドアをノックする音が聞こえた。
「――誰だ!?」
外にいるのが桃花だったら、即座に謝るつもりで、咲耶は鋭い声を上げた。
しかし、その後に聞こえて来たのは、
「保科さん、秋月だ。少し話があるんだ。部屋に入れてもらえないかな?」
今、もっとも会いたくない相手――龍生の声だった。