第16話 結太、散歩嫌いの犬の如く抵抗する
話はまた、少しだけさかのぼる。
イーリスに強引に手を引かれ、自分の住むマンションの前まで来た結太は、両足を踏ん張るようにして立ち止まった。(余談だが、結太のその時の様子は、散歩に行こうとリードを引いた飼い主に対し、『嫌だ』と主張してその場に留まろうとする、散歩嫌いの犬のようにも見えた)
「イーリス! オレん家ここ! このマンションの一室! だから、もーここで別れよーぜ! 引越しの手伝いは、やっぱ出来ねーよ悪ぃーけど!」
結太の声に振り向くと、ニコッと微笑み、
「あら、そうなの? このマンションが結太の家だったなんて、奇遇ね。アタシの新居も、このマンションの一室なのよ?」
イーリスは、さらっと信じられないことを言った。
結太は、ポカンと口を開けたまま、数秒ほど固まっていたが、やがて、『ふへえッ!?』という、裏返った声を上げた。
結太の反応に、イーリスは満足げに、プフっと吹き出す。
そして再び、驚きのあまり固まってしまった結太の手を、両手でギュッと握ると、力の限り引っ張って、マンションの入り口から中に入った。
「結太。――ねえ、結太ってば。あなたの家に着いたわよ? いい加減、こっちに戻って来て?」
頬をペチペチと叩かれ、結太はハッと我に返った。
二~三度瞬きして前を見ると、イーリスの言う通り、自分の家の前だった。
どうやら、しばらくの間、意識が飛んでしまっていたらしい。マンションの前にいたはずなのに、いつの間にか、家の前まで来ていた。
どうやってここまで辿り着いたのか、さっぱり思い出せないが、イーリスの手が未だに繋がれているところを見ると、彼女が連れて来てくれたのだろう。
「ああ……うん。連れて来てくれたのか。サンキュー……」
普通に礼を言ってから、マンション前で、イーリスに言われたことを思い出す。
「――って、いやっ、そーじゃねー! 連れて来てくれたのはありがてーけど、そーじゃねーんだって!……イーリス、おまえ確か、新居がこのマンションの一室……って、言ってなかったか?」
「ええ、言ったわよ? アタシの新居、ここ。結太の家の隣」
またもさらっと驚愕の事実を告げ、イーリスは、結太の家の隣を指差した。
結太は、これ以上無理と思われる限界まで、両目を見開くと、
「は――っ、……はぁああああああーーーーーーーッ!?」
マンション中に響き渡るほどの大声を上げ、ヨロヨロと、数歩後ずさった。
イーリスの言ったことが、すぐには理解出来なかった。
彼女は、『アタシの新居、ここ』と言い、結太の家の隣を指差したが、質の悪い冗談だろうと、一瞬、笑い飛ばそうかとも思った。
だが、冷静になって振り返ってみると、一週間ほど前だったろうか。隣人が、『急遽、引っ越すことになりまして』と、挨拶に来たのを思い出す。
母は、『あら。ずいぶん急な話ですね』と残念そうに言い、元隣人と、玄関先で数分ほど話をしていた。
……と言うことは、一週間ほど前に空いた、隣の部屋に越して来たのが……イーリス、だったのか。
「……嘘……だろ……」
結太は呆然とつぶやく。
イーリスは、『このマンションが結太の家だったなんて、奇遇ね』と、さして驚いた様子も見せずに笑っていたが……。
……『奇遇』? 本当に、それだけなのだろうか?
転校して来た知り合いの新居が、自分の家の隣だなどと、偶然にしては出来過ぎな気がする。
それにイーリスは、大病院の特別室に入院していたほどの、大金持ちのはずだ。
大金持ちのお嬢様が、こんな、一ヶ月の家賃が十万も行かないような、三階建ての2LDKマンションに、いきなり越して来たりするものだろうか?
「イーリス……おまえ、お嬢様なんだろ? それがどーして、築数十年の、見た目アパートっぽいマンションに越して来たりすんだよ? どー考えたっておかしーだろ」
正直に、思ったことを伝えると、イーリスは可愛らしく小首をかしげる。
「あら、そう? そんなにおかしいかしら?」
「おかしーよッ、どー考えてもッ!!」
被せ気味にツッコむ結太の顔を、数秒ほどじぃっと見つめてから、イーリスは楽しげにフフッと笑った。
そして、制服のスカートから鍵を取り出し、結太の家の隣のドアを開け、何事もなかったかのように玄関に入る。
「おいッ!!」
無視するつもりかと、焦って結太が声を掛けると、イーリスはドアの隙間から顔と片手を出し、微笑みながら結太を手招きした。
「な――っ、ななっ、なんだよっ? 引越しの手伝いは出来ねーって、さっき言っただろっ?」
ほんの少しでも、桃花に誤解されてしまうようなことはしないし、したくない。そう誓ったのだ。
それなのに、イーリスは諦めてくれない。しつこく、結太を手招きする。
「だからッ!! 何度手招きしよーが無理だってッ!! オレはぜってー、イーリスの引っ越しの手伝いはし――っ」
結太が『手伝いはしねー』と言おうとしたとたん、イーリスの隣の部屋のドアが開いた。中から、おばあさん(303号室の住人である、板橋さん。六十八歳。一人暮らし)が、にゅうっと首を伸ばし、結太をギロリと睨みつける。
慌てて結太が頭を下げると、不機嫌そうな顔のまま首が引っ込み、ガチャッとドアが閉まった。
ホッと胸を撫で下ろした、その一瞬の隙を突かれ、結太の片手が思い切り引っ張られる。
「ぅわ――っ!?」
驚いた結太の声が、廊下からイーリスの部屋へと吸い込まれ――代わりに、ドアが閉まる音が響いた。