第14話 時子、想像以上の甘い処分に安堵する
結局、『学校内(特に、他の生徒達の前)で、あのような行為は絶対にしないこと』と釘を刺されただけで、龍生と咲耶への〝厳重注意〟は、あっけなく終了した。
時間を計っていたわけではないので、詳しくはわからないが、校長室にいた時間は、十分もなかったように思える。
校長室を出ると、時子は重ねた両手を胸元に当て、ホッとしたように微笑んだ。
「思ったより処分が甘くて、よかったわね~、二人とも。もしも、先生方にキツイこと言われたりしたら、こっちも負けずに言い返してやろう――って思ってたけど、お母さんの出番なんて、少しもないまま終わっちゃったわ~」
そう言うと、時子は龍之助に向かい、
「それもこれも、龍之助さんのお陰です。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げ、感謝の意を表す。
龍之助は、『いやいや』と言いつつ頭を掻き、
「私は何もしていませんよ。ただ、事実を述べたのみです。二人が真剣に想い合っているのが、先生方にも伝わったからこそ、口頭での注意だけで済んだのですよ」
「……そうですね。それはもちろん、そうなんですけど……。でも、呼ばれたのが私だけだったなら、こうも簡単に、事は運んでいなかったと思うんです。やはり、龍之助さんの存在あってこそ――周囲への影響力が、とてつもなく大きいからこそ、話し合いもうまく行ったんですわ」
「ハハハ。そんなことはありますまい。時子さんは、相変わらずお世辞がお上手ですなぁ」
ハハハ、ホホホと、和やかに歓談している保護者達。
その前を歩きながら、咲耶は複雑な気持ちで、二人の会話に耳を澄ませていた。
二人とも、『龍之助さん』『時子さん』などと名前で呼び合い、妙に打ち解けた雰囲気だ。
その辺りの事情は、昨夜、教えてもらってはいたものの……母親が、父親以外の男性と親しげにしているところなど、あまり見たくはなかった。
「咲耶、どうかしたのか? 妙に落ち着かない様子だが……」
隣を歩く龍生が、心配そうに顔を覗き込んで来る。
咲耶は僅かに頬を赤らめ、
「べっ、べつに、何でもない。……ただ、その……秋月のおじいさんと、母さ――……母が、すごく仲がいいみたいだから……なんとなく、不思議だなって、思ってただけだ」
拗ねているかのように、ぷいっと横を向いた。
龍生は、『ああ』と相槌を打ってから、
「幼い頃の誘拐事件の後、お祖父様は、何度か咲耶の家に謝罪に伺っていたそうだからね。安田にも、一ヶ月に一回は、菓子折りを持たせて、ご挨拶に伺わせていたようだし。――ほら。俺が咲耶の家に初めて伺った時、君の弟達と安田が、異様なほど打ち解けていたのを、不思議に思わなかったか? あれは、安田が既に、弟くん達と顔見知りだったからなんだな。昨夜のお祖父様の話で、俺もようやく理解出来た」
「……うん。それは、私もわかってるんだが……」
二人の言う、『昨夜』とは何か?
実は、咲耶と両親の話が済んだ後、龍生と龍之助が、保科家を訪ねて来ていたのだ。
二人が〝許婚同士〟になったのも、昨夜からなのだった。
昨日の夜、いきなり訊ねて来た二人は、戸惑う保科家の面々に向かい、『婚約』の話を持ち出して来た。
二人が、将来を誓い合った〝許婚〟であるならば、教師達の印象も変わって来るのではないか――と、二人は考えたそうなのだ。
当然、あまりにも唐突過ぎる話だったので、最初は咲耶も断った。
龍生と結婚するのが嫌だ――ということではなく、ただ単に、結婚を意識した付き合いなど、自分には早過ぎると思ったからだ。
しかし龍生は、
『べつに、今すぐ結婚しようと言っているわけではないよ。許婚になったら、将来、絶対に結婚しなければならない――というわけでもない。ただ、結婚を視野に入れた付き合いだということがわかれば、先生方も、それほど厳しい目では、見られなくなるのではないか――。そう思って、提案しているだけだ。君に、結婚を無理強いするつもりは、全くない』
咲耶の肩に手を置き、真剣な顔で語った。
それを聞き、咲耶は一瞬、『……なんだ。本当に、結婚したいと思っているわけではないのか』と、少しガッカリした。
そんな自分に気付き、『何を考えてるんだ、私は?』と恥ずかしくもなったが、龍生は、咲耶の気持ちを知ってか知らずか、
『……だが、俺は本気だ。無理強いする気は毛頭ないが、もし、咲耶が受け入れてくれるなら……いつかは、絶対結婚したいと、心から思っている』
まるで念押しするように、そんな言葉を付け加えて来た。
――これで、咲耶は落ちた。
自分でも驚くほど、あっさりと。ころっと。落ちてしまった。
一ヶ月前までは、『結婚なんて、自分には考えられない』とまで、思っていたのに。
それどころか、『一生、結婚なんてしなくてもいい』とすら、思っていたのに。
恋とは、こうも簡単に、人を変えてしまうものなのだろうか?
そう思うと、少し怖くもなったが……今更、引き返せるはずがなかった。
咲耶は、自分でも意外に思えるほど、龍生の『絶対結婚したいと、心から思っている』という言葉に、ときめいてしまったのだった。
「――……くや。……咲耶?」
龍生の声が耳元で響き、ハッと目を見開く。
「どうした、咲耶? 気分でも悪いのか? 急にボーっとして、黙り込んで……。一時限目の授業には、まだ間に合う時間だが……先生に言って、保健室で休ませてもらうか?」
そう言って、龍生は優しく頭を撫でる。
心地良い感触に、ドキドキしながらも、
「だっ、ダイジョーブだっ! きっ……気分が悪いわけじゃないっ。ヘーキだっ!」
思いきり顔をそらし、キッパリと告げると、龍生は『そうか』とつぶやいて、そっと頭から手をどけた。
「――あ……」
龍生の手が離れて行くのが寂しくて、思わず声が洩れる。
「ん?……どうした?」
不思議そうに首をかしげられ、咲耶の顔は、たちまち真っ赤に染まった。
まさか、『もっと頭を撫でていてほしかった』などと、言えるはずもない。
「なっ、何でもないッ!!――も、もうすぐ授業が始まってしまうし、用はもう済んだんだろうっ? もっ、もう、自分の教室に行っていーんだよなッ?」
「え?……ああ、まあ――。いいとは思うが……」
そう言うと、龍生は、後方の保護者二人に目をやる。
二人は微笑み、同時にコクリとうなずいた。
「じゃっ、じゃあ、私はもう行くぞ!――母様、秋月のおじいさん、今日は、どうもありがとうございましたっ! それじゃ秋月、また昼休みになっ!」
咲耶は一方的に告げ、廊下を全速力で駆け出した。
後ろから、『あ……っ、咲耶! 走るとまた、先生に注意されるぞ!』という龍生の声が聞こえて来たが、聞こえないふりをした。
(わああーーーッ!! 私のバカバカバカバカァーーーーーッ!!……『もっと頭撫でてほしい』――とかって、何考えちゃってるんだよぉおおおおおーーーーーッ!? そんなこと――っ、そんな甘ったれたこと、今まで一度だって考えたことなかったのにぃいいいいーーーーーッ!!)
……堕落だ。
私は、完全に堕落してしまった。
こんなにまで、頭の中が龍生だらけになってしまうなんて……。
自分の変貌ぶりに恐怖すら覚え、咲耶はひたすら、教室に向かって走り続けた。