第10話 咲耶の父、妻からの報告に驚愕の声を上げる
「え!? 学校!? え!? 呼び出し!? えっ、えっ……、きっ、キスぅううううううッ!?」
時子から、少しずつ報告を受けるたびに、狭霧は、普段より一オクターブは高いと思われる、裏返りそうな声を上げている。
咲耶は居た堪れない気持ちで、居間のソファの上で、膝を抱えて丸まっていた。
狭霧は、慌てて咲耶の前まで来て正座すると、涙目で娘を見上げ、興奮気味に訴える。
「咲耶っ! おっ、お父さんの知らないうちに男と付き合ってたってっ、――しかも、あの秋月家の跡取り息子と付き合ってたってのは、本当なのかい!?――そっ、その上っ、――がっ、がががが学校でっ、き――っ、キキキキキキキスキスキスしてたってっ!?」
父親の顔は、ダンゴムシのように体を丸めて座っている咲耶からは、窺い知ることは出来ない。
だが、見なくてもわかる。父親――狭霧は、確実に泣きそうな顔をしているはずだ。
それがわかっているから、咲耶は何を訊かれても、顔を上げることが出来ずにいた。
父親の泣きそうな顔など、決して見たくはなかったからだ。
「咲耶っ! 黙ってないで、何か言ってくれ!……なあ。キスしてたなんて嘘だろう? 咲耶がキスなんて……真面目な咲耶が、学校で――皆が見てる前でキスしただなんて、お父さん、とてもじゃないけど信じられないよ。……なあ、咲耶。嘘だよな? お母さん、何か勘違いをしてるんだ。そうだろう? そうなんだよな? なっ? お父さん、咲耶のこと信じてるからな?」
娘を信じているというより、そうであることを願っているかのような、狭霧の訴えだった。
何か言われるたびに、咲耶の胸はズキズキと痛む。
自分の行いが原因とは言え、父親にこんな台詞を吐かせてしまうとはと、耳をふさぎたくなった。
「ちょっと、お父さん。そんな訊き方したら、咲耶が何も言えなくなっちゃうじゃない。お父さんの『信じてる』は、〝信頼〟から来てる言葉じゃないわ。不安や恐怖から来る〝願望〟、または〝押し付け〟でしょう? 『お願いだから嘘だと言ってくれ』って、言ってるようなものよ?」
時子は、咲耶が何も言えない状態であることを察し、助け舟を出して来た。
「そ――っ、そんな! 俺はべつに、押し付けようだなんて……」
狭霧は、情けない顔のまま、時子を振り返る。
腰に手を当て、狭霧を軽く睨みつけると、時子は尚も言い募った。
「いーえ! さっきからお父さんが言ってることは、ほとんど押し付け!――ううん。脅迫と言ってもいいくらだわっ。……まったく。可愛い娘が、学校でキスしたって知ったくらいで、うろたえちゃってみっともない! 今時、キスのひとつやふたつ、高校生のカップルが、してないって考える方がおかしーわよ! 昼間のワイドショーなんか観てると、高校生どころか、中学生や小学生だって、今や信じられないくらい、イロイロ経験してる――……らしい、とかってやってるわよ? キスなんて、まだ可愛い方じゃない」
「キっ、キスが可愛い?」
時子の言葉に、狭霧は、かなりの衝撃を受けたらしい。
たちまち真っ蒼になり、ゆっくりと咲耶の方へ向き直ると、
「……ってことは……まさか咲耶、おまえ……。おまえはもう、キス――以上のこと、も……?」
震え声で訊ねる狭霧に、咲耶は素早く顔を上げ、ブルブルと首を横に振った。
「しっ、してないッ!! キス以上のことなんてしてないッ!! 絶対絶対、してないッ!!」
「――っそ、そうか。……そうか、よかったぁ~……」
狭霧は両手を膝に置いたまま、ハア~ッと深いため息をついた。
しかし、ハッとしたように目を見開くと、
「――ん!? だったら、さっきのは何だ? おまえ達が話していた、『避妊』がどーのって話は、いったい何のことなんだ!?」
答えを求め、狭霧は時子を振り仰ぐ。
「ああ、あれは……。この際だから、咲耶にきちんと、性教育しておいた方がいいかしら~と思って。これからお勉強しましょ~って時に、あなたが帰って来たのよ」
「な、なんだ、そうだったのか……」
狭霧は、今度こそホッと出来たらしい。両手を胸に当て、再び安堵の息をついている。
咲耶は、膝を抱えていた両手を解き、ソファにきちんと座り直すと、
「すまん、父様! 学校から呼び出しなんて……。父様にも母様にも、恥ずかしい思いをさせてしまうことになるが……」
深々と頭を下げ、真剣な口調で、二人に謝った。
狭霧と時子は顔を見合わせ、何かを告げようと口を開き掛けたが、咲耶はガバッと顔を上げ、目に涙を溜めて訴える。
「だが、私も秋月も、決して、ふざけた気持ちから、あんなことをしてしまったわけじゃないんだ! それだけは信じてほしい!」
「……咲耶……」
二人が娘の涙を目にしたのは、本当に久々のことだった。
幼い頃の咲耶は泣き虫で、ちょっとしたことで、よく泣いていたものだが、ある日を境に、全くと言っていいほど泣かなくなったのだ。
ある日というのは、誘拐事件のあった日のことだ。
あの日、自分の目の前で、龍生が大怪我を負ったことが、かなりショックだったのだろう。次の日にはもう、誘拐事件のことは、すっかり忘れてしまっていた。
記憶喪失――と言うよりも、あまりにも怖い思いをしたため、思い出さずに済むよう、己の記憶に蓋をしたのではないか――というのが、当時の、祖父と両親による見解だった。
誘拐事件の日を境に、咲耶は、生まれ変わったのだ。――時子達は、そう思うようにしていた。
その咲耶が、今再び、目から大粒の涙を流し、切々と訴えている。
「あの時私達は、他愛ないことで、軽い言い合いみたいになってしまっていて……。そんな中、秋月が言ったんだ。『もし、俺と伊吹さんが、崖から落ちそうになっていたら、どちらを助ける?』って。秋月は、軽い気持ちで言ったのかもしれないが、その質問をされた瞬間、私は……私は、幼い頃のこと……を……目の前で、秋月が大怪我をした時のことを、思い出して……しまって……。すごく、すごく怖くなって……。そのまま、秋月にすがりついて、泣いてしまったんだ。バカみたいに、大声で。まるで、幼子のように……」
咲耶は手の甲で涙を拭うと、
「秋月は、私が泣き止むまで、ずっと抱き締めてくれていた。『すまなかった』『嫌なことを思い出させて、申し訳ない』って、何度も謝って。……それで……落ち着いて顔を上げたら、秋月が……すごく優しい顔で、私を見ていて……。恥ずかしかったけど、すごく……すごく嬉しかったんだ。なんだか、全部わかってくれてるみたいで……。私の気持ちを、みんな受け止めてくれてるみたいで。……そう感じたら……好きだって気持ちが、溢れて来て……。自然と……そう、なってた……」
恥ずかしそうに頬を染めつつ……それでも懸命に、自分の気持ちを伝えようとする。
狭霧と時子の目には、そんな娘の姿が、とてもいじらしく――また、幸せそうに映った。
二人は、目配せした後、どちらともなく微笑み合い、しみじみと心でつぶやく。――『いい恋をしているんだな』と。
「咲耶。あなたの気持ちは、よくわかったわ。二人が真剣に想い合ってる……ってこともね」
「――母様!」
咲耶の表情が、ぱあっと、霧が晴れたように明るくなった。
時子は咲耶の肩に手を置き、狭霧は咲耶の手を握って、同時にうなずく。
「咲耶は、何も間違ったことをしてない。――明日、私が学校に行って、先生達にそう言ってやるわ。お父さんはお仕事があるから行けないけど……きっと、同じ気持ちよね?」
そう言って目配せする時子に、狭霧は照れ臭そうに頭を掻いてから、大きくうなずいた。
「よし!――保科家の家族会議、これにて終~~~了~~~っ!」
時子が、大声で宣言したとたん。
話が終わるのを待っていたかのように、玄関のチャイムが鳴った。