第2話 結太と桃花、廊下から聞こえた声に仰天する
『ねえ、ちょっと聞-てよ! 保科さんが、廊下で大泣きしてるんだって!』
桃花が教室で咲耶を待っていると、突然廊下から、そんな声が聞こえて来た。
ギョッとして椅子から立ち上がり、廊下側に目を向ける。
すると、斜め後方でも、同じく誰かが立ち上がったような、“ガタン!”という音が聞こえ、桃花はハッとして振り返った。
(――く、楠木くん!)
ほぼ同じタイミングで立ち上がったのは、結太だったらしい。
机に両手をつき、驚いた顔で、廊下側を見つめている。
(楠木くんも、咲耶ちゃんのこと、心配してくれてるみたい。……でも、泣いてるって……ホントに咲耶ちゃんなのかな? あの咲耶ちゃんが、学校で泣くだなんて……)
桃花でさえ、咲耶が泣いているのを見たのは、二回ほどしかなかった。
その咲耶が、泣いている?――しかも、大泣きしている?
にわかには信じがたかったが、龍生と一緒だとすると、それもあり得るような気がした。
桃花は鞄を素早く掴み、廊下に出ようと、後ろの戸に向かう。
「――あ。伊吹さんっ!」
「ひゃうんっ」
廊下に、一歩足を踏み出したところで、結太に呼び掛けられ、思わず、妙な声が洩れる。
桃花は真っ赤になって立ち止まったが、振り向く勇気が持てず、その場でモジモジしていた。
結太は側まで歩いて来て、
「ごめん、引き留めて。保科さんのとこに行くんだろ?……けど、大泣きしてるって、どーゆーことなんだろーな? 龍生が絡んでたりするのかな? 伊吹さんはどー思う?」
などと訊ねて来た。
「えっ?……えとっ……。あの……」
今朝のことがあるので、もの凄く気まずい。
結太がいないところで起きたことではあるが、クラス内であれだけ噂されていたら、既に結太の耳にも、入ってしまっているかもしれない。
もしそうだとしたら、桃花の気持ちも、知ってしまったことになるわけで……。
(あああ……どーしようっ。恥ずかしくて、顔上げらんないよぅ~~~)
質問に答える余裕すらなく、桃花は鞄を両腕で抱き、ひたすら縮こまっていた。
それに気付いた結太は、慌てて謝る。
「あ…っ、ごめん。どう思うって、訊かれても困るよな。わかるわけないもんな。……え……っと……だったら、オレも一緒に、様子見に行ってもいーかな?」
「――えっ?」
「だってさ、ほら……た、龍生が関係してるってんだったら、オレにも何か、力になれることあるかもしんねーし。龍生が保科さん泣かせてるってことだったら、オレがあいつに、ガツンと言ってやることも出来るしさ。……なっ? 行ってみよーぜ、伊吹さん!」
結太はそう言うと、強引に桃花の片手を掴み、軽く引っ張りながら走り出した。
「えっ……えっ?――く、楠木くんっ?」
ビックリするやら、恥ずかしいやら、嬉しいやら。
様々な感情が、一度にドッと溢れて来て、桃花は激しく動揺した。
結太にしっかりと掴まれている、左手が熱い。
ドックドックと、体内で大きく反響している、心臓が苦しい。
顔も体も――全身が、高熱を出して寝込んでいる時のようだ。燃えるように熱くて、ボーっとして……クラクラと、めまいのような感覚までして来て……。
(……でも、違う。……熱を出してる時は、早く、こんな状態から解放されたい――って思うけど……。でも、今は……)
今は、出来るだけ長く、こうしていたいと願っている。
体中が熱くて、苦しいけど、ずっとこうしていられたらいいのに……と、夢見てしまっている。
(楠木くん、わたし……。わたし、どーしよー……。……好き。……好き。やっぱり好き。……いつの間にか、こんなにも……好きになっちゃってる。……わたし……わたし、どーしたらいーの? 楠木くんは、秋月くんが好きなのに……。どんなに好きになったって、想いが通じるわけないのに……。でも……でも、好きなの。大好きなの。……どーしよー……。苦しい……。苦しいよ……)
結太に手を引かれながら、桃花はそんなことを考えていた。
――が、そんなこととは露知らず、結太は結太で、脳内大パニックだった。
(うわ~~~っ、何やってんだオレっ? いきなり、伊吹さんの手掴んで走り出すとかって……。うわーーーッ!! どさくさに紛れて、メチャメチャ大胆なことしちまったーーーッ!! 伊吹さんのメーワクも考えず、ホントに何やってんだよオレはーーーーーッ!?……伊吹さん、困ってんだろーな……。めっちゃ優しい人だから、怒ってたりはしない……と、思うけど……。でも……伊吹さんの手って、ちっちゃくって、やーらかくって……なんか、可愛ーな……。ずっとこーして、握ってたくなる。……ずっと、ずーっと……離したくねー……な……)
お互い、『ずっとこうしていたい』という気持ちは、どうやら同じであるようだ。
しかし、“ずっと”などという願いは、とうてい叶うはずもなく……。
二人は呆気なく、咲耶のクラス――七組の、少し手前まで来てしまった。
「うわ……。七組の廊下、すっげー人だかりが出来てる。……ってことは、あの先に、龍生と保科さんがいんのかな?」
桃花の手を繋いだまま、人だかりの少し前まで歩いて行き、その隙間から、先の様子を窺う。
「――ゲッ! 何やってんだあいつらっ!?」
思わずギョッとし、結太は二~三歩後ずさる。
隙間から結太が目にしたのは、人目もはばからず、龍生と咲耶が抱き合っている場面だった。
「ヤベーな。こんだけ周りに人がいたんじゃ、今更、ごまかしよーがねーだろーし……。センセーに見つかったら、いくらあの二人でも、呼び出し食らっちまうんじゃねーか? なっ、そー思わねー? 伊吹さ――」
振り返って見ると、桃花は片手で鞄を抱え、深く、深くうつむいている。
そのため、どんな表情をしているのかわからなかったが、彼女の肩も手も、微かに震えているのに気付き、結太はヒヤッとして手を離した。
「あ――っ、ご、ごめんっ! 勝手に、手なんか繋いじまって……」
慌てて謝ると、桃花はふるふると首を振り、
「……ううん。……だい……じょーぶ……」
耳を澄ませて、ようやく聞こえるような声で答える。
そう言いつつも、なかなか顔を上げようとしない桃花に、結太の胃は、キリキリと痛み出した。
(やっぱ、マズかったかな? 付き合ってるわけでもねーのに、図々しく手なんか繋いじまって……。あー、クソッ! ホントにまったく、何やってんだオレはっ?)
結太が激しく後悔した瞬間、
「キャアアアアアアーーーーーーーッ!!」
「イヤァアアアアアーーーーーーーッ!!」
「ヤメロォオオオオーーーーーーーッ!!」
人だかりから一斉に、悲鳴のような、怒号のような声が上がった。
結太と桃花はビクッとなり、反射的に振り返る。
人だかりは、いつの間にか先ほどより増えていて、龍生達の様子は、それらを掻き分けて行かない限り、チラリとも窺えそうになかった。
だが、人だかりから聞こえて来たある台詞に、二人は、同時に耳を疑った。
人だかりから聞こえて来たのは、こんな台詞だった。
『イヤァアアアッ!! 何もこんなところで、わざわざ見せつけることないじゃないッ!! 見たくなんかなかったーーーっ、秋月くんと保科さんの、キスシーンなんてぇええええッ!!』




