第8話 桃花、美智江に土下座されうろたえる
いきなり美智江に土下座されてしまった桃花は、心底驚いて、二~三歩後ずさった。
鵲と東雲の土下座なら見たことはあるが、女性に土下座されるのは初めてだったし、当然、見ていて楽しいものでもない。
うろたえた桃花は、思わず、咲耶の腕につかまって、助けを求めるように見上げてしまった。
「ど、どーしよう咲耶ちゃんっ? わたし、いったいどーしたら……っ」
咲耶は桃花の手を握り、
「大丈夫だ、桃花。誰に何を言われようと、桃花が一番望むことをすればいいんだ」
そう言って、視線を合わせてうなずく。
それから、まだ土下座している美智江に視線を移すと、厳しい顔つきで訊ねた。
「確か、荒巻さん……とおっしゃいましたか。あなたは先ほど、五十嵐信吾の病名を口にし、その時、『こういうことを告げるのは、卑怯なことだとわかっています』とおっしゃった。でしたら、大人しい女子高生の前で、こうやって土下座などしてみせるのも、充分卑怯なことだと、わかってやっていらっしゃるのでしょうね?」
美智江は、ピクリと肩を揺らした後、更に深く頭を垂れ、苦しげな声で『はい』と答える。
「桃花はとても優しい子です。そして、少々気が弱いところもある。あなたが、桃花のそういう性格を見抜き、このようなことをしているのだとしたら、私はあなたを軽蔑します。――だってそうでしょう? 自分の母親以上に年長な女性に、目の前で土下座などされ、同情を誘うようなことまで言われてお願いされたら、桃花でなくとも、多少は怯むに決まっている。心ではそうしたくないと思っていたとしても、そうせざるを得ないような心境に、追い込まれてしまうかもしれない。……あなたの元夫である人のご病気のことは、お気の毒だとは思いますが、そのことと、今回の事件の責任問題とは、全く別のことです。病気のことで同情を誘い、桃花の公正な判断力を奪うような真似は、やめていただきたい!」
桃花を背に庇い、毅然とした態度で意見を述べる咲耶からは、高校生とは思えない、凛とした美しさと、迫力すら感じられた。
龍生などは、一瞬、本気で見惚れてしまっていたほどだ。
しかし、すぐに我に返ると、恋人の意見に賛同するように、深くうなずき、
「咲耶の言う通りです。病気であることは、罪を許される理由にはなりません。その理屈が通用するのならば、病気が原因で自暴自棄になり、罪を犯した人間などは、皆、許されることになってしまいます。それでは、世の中に混乱が生じてしまう。断じて、看過することは出来ません」
感情に流されてはいけないと、己に言い聞かせるためもあるからか、龍生は、あえて厳しい言葉を発した。
かなり年下の高校生二人に、正論を唱えられ、美智江は始め、返す言葉もなかった。そんな自分を、ひたすらに恥じてもいた。
だが、それでも――美智江には、こうすることしか出来ないのだ。
どんなに卑怯だと思われようと、『わかりました。では、もういいです』と、引くことは出来ない。
「はい。私は卑怯者です。重々承知しております。……ですが、それがわかっておりましても、私にはこうするしか……こうやって、頭を下げてお願いすることしか、出来ないのです」
美智江は一度顔を上げ、真剣な表情で、まっすぐ桃花を見つめてから、再び頭を下げる。
「お願いいたします、伊吹様! 信吾を警察に引き渡さないでください! 信吾には、二度とこのような真似はさせません! これから先は、一生私が、側で見張って参ります! ですから……どうか、お願いでございます! この人を……私の大切な人を、私から奪わないでくださいッ!!」
涙声の訴えに、桃花の心は揺れた。
これで許してしまっては、いけないのかもしれない。
五十嵐信吾のような、気は弱くても、他人を使ってまで悪いことをしようとする人間を放っておいては、世の中のためにならないのかもしれない。
でも、末期に近い病気だというのであれば、もう、そんな悪いことをしようなどとは、思わないのではないだろうか?
いや。しようとしたとしても、気力や体力が落ちて来るため、諦めるしかなくなるのでは……?
そんな思いが、ぐるぐると回る。
自分は、甘いのだろうか?
悪いことをした人だとわかっているのに、どうしても、被害届を出そうという気に、なれないでいる。
先ほどから、ずっと床に座り込んだまま、弱々しい顔で、元妻を見つめているだけのこの男を……五十嵐信吾という男を、やはりどうしても、憎む気にはなれない。
「ひとつ……訊いても、いいですか?」
桃花はありったけの勇気を振り絞り、目の前の美智江にではなく、信吾に声を掛けた。
咲耶や龍生も、そして周囲の誰もが、驚いたように桃花を見つめる。
「どうしても……これだけ、訊いておきたいんです。……いいですか?」
信吾は最初のうち、自分が声を掛けられているとは思わず、ポカンとした顔をしていたが、周囲の視線が自分に集まっていることに気付き、ようやく理解したらしい。
恐々といった感じで、桃花を見つめると、小さくうなずいた。
桃花は、ゆっくりと深呼吸してから、真剣な瞳で訊ねる。
「あなたはここで、わたしに誓ってくれますか? もう二度と、悪いことはしないって。誰かを雇って、悪いことをさせたりもしないって。……絶対に、二度としないって……誓うことが出来ますか?」
信吾は両目を見開いて、数秒、穴のあくほど桃花を見つめていたが、ハッと我に返ると、何度も首を縦に振った。
「ち――っ、ち、誓うッ!! 誓いますッ!! にっ、二度と悪いことはしませんッ!!――誓いますッ!! 誓いますッ!! 誓いますッ!!」
ひたすら首を振り続ける様は、福島の郷土玩具である、赤べこのようだ。(首の振り方は、赤べこより激しいが……)
桃花は以前、咲耶の家で、その玩具を見たことがある。信吾を見ていたら、ふと、思い出してしまった。
それでつい、プッと、吹き出してしまいそうになったのだが……。
真剣な話の途中で、さすがにそれは不謹慎だと、ググッと堪えた。
だが、赤べこのお陰で、だいぶ気持ちが軽くなった桃花は、ホッと息をつき、
「わかりました。わたし、警察には行きません。被害届も出しません」
そう宣言し、ふわりと笑った。