第7話 桃花、美智江に同情し思い悩む
大声を上げ、話に割って入って来たのは、信吾の元妻である美智江だった。
彼女はソファから立ち上がり、桃花と同じように胸の前で両手を組み、神に祈るかのような格好で、桃花達を見つめていた。
龍生はそちらに顔だけ向け、
「どうかされましたか、荒巻さん?……まさかとは思いますが、この期に及んで、その男を警察に引き渡すのは反対……などと、おっしゃるつもりではないでしょうね?」
礼節を尽くすタイプの彼にしては珍しく、冷ややかな目つきで訊ねる。
美智江はビクッと身をすくめると、力なく首を横に振った。
「い……いいえ、そんな。反対というわけでは……ないのですが……」
消え入りそうな声で否定し、うつむく美智江を見て、桃花の胸はツキリと痛んだ。
十年前に離婚しているとは言え――本当は、夫の父親の方が好きだったとは言え、元夫だ。それなりに、情も移っているだろう。
たとえ自業自得であっても、警察に突き出されると聞いては、黙ってもいられまい。
(わたしが被害届出したら……きっと、元奥さんも、その息子さんも、苦しめることになるんだよね……。確か、悪いことした時って、罪が重いのは実行犯の方で、計画立てたとか、指図した人とかの罪は、それほど重くはならない……って、聞いたことあるような気がするんだけど、あれって本当かな?……もしそうだとしたら、何年も刑務所に入ってなきゃいけない――ってことには、ならないのかも……?)
たとえ、重い罪にはならなかったとしても。
やはり、他人の運命を大きく変えてしまうようなことを、決めなくてはいけないというのは、桃花にとっては、相当なプレッシャーだった。
いったい、どうすればいいのだろう。
龍生は、『許せないと思うのであれば、警察署に行って、被害届を提出すればいい』と言っていたが……。
正直なところ、桃花には、実行犯二人に対する恐怖心はあっても、指示したという、五十嵐信吾という男についてどう思っているのか、自分でもよくわかっていない。
命令された方よりは、命令した方がより悪い……ということは、桃花にも理解出来るのだが……。
こうして、実際に〝誘拐を指示した方の男〟を目にしてみると、ただの〝気弱な中年男〟にしか思えず、戸惑ってしまうのだ。
今回、誘拐事件を起こした理由というのも、どうやら、『息子が全然会ってくれないから』という、どう理解したらよいのか、よくわからないようなものであるらしいし……。
考えれば考えるほど、ますます頭がゴチャゴチャになって来て、
『もーいーです!! 二度と罪を犯さないって誓ってくれるなら、被害届出さなくていーですっ!!』
……と、言ってしまいたくなる。
そうやって、桃花がぐるぐると悩んでいる最中にも、話は進んでいて、
「では、荒巻さん、あなたは……今回も、この男を見逃せとおっしゃるのですね? 私の恋人の友人を、あんなに怖い目に遭わせておいて、その罪を許せと?」
目の前では、龍生が美智江に向かい、一切の感情を消したような無機質な声で、そう訊ねていた。
「いえっ! 許せなどとは、決して――!」
慌てて否定する美智江に、龍生は淡々と。
「おや。許せと言うつもりはないのに、警察には引き渡すな――というのは、おかしな話ですね。では、あなたはいったい、この男をどうしてほしいと?」
大声を出しているわけではないし、脅かすようなことを言っているわけでもないのだが、龍生の感情を抑えた声と、落ち着いた態度は、ただ怒鳴り散らすだけの大人の男より、凄みと言うか、内面から滲み出るような、迫力を感じさせた。
美智江はビクビクしながらも、必死に自分を励まし、どうにかして想いを伝えようと頑張っていた。
「あの……私は、信吾の犯した罪を、許して欲しいと言っているわけではないのです。許してもらえるとも、思っていません。ただ……」
そこで言葉を切り、ゴクリと唾を飲み込むと、美智江は意を決したように、
「この人は、病気なんです!! ステージ3の、肝臓癌なんですッ!!」
誰もがギクリと目を見張る、悲痛な声で叫んだ。
美智江の思い掛けない告白に、辺りは一瞬にして、シンと静まり返る。
ここでいきなり、病気のカミングアウトがなされるとは、皆思っていなかっただろう。
「こんな時に……こういうことを告げるのは、卑怯なことだとわかっています。ですが……この人に残された時間は、もう、ごく僅かしかないかもしれないのです」
微かに、声が震えている。
……いや。よく見ると、しっかりと胸の前で組み合わされた両手も、小刻みに震えていた。
「ステージ3の肝臓癌の、五年生存率は……二十パーセントにも満たないと言われています。残りの人生、五年あるかないか……。それなのに、もし、刑務所に入らなければならなくなったとしたら……。そう考えたら、どうしても、黙っていられなくて……」
涙声でうつむく美智江を、未だ床の上の信吾は、呆然と見つめる。
「美智江、おまえ……。何故……。何故、それを……?」
問われた美智江は、涙を浮かべながら薄く笑い、
「掛かり付けのお医者様、あなた、ずっと同じ人でしょう? 私も、あの先生に診てもらってるのよ。それで……二ヶ月ほど前だったかしら。病院の定期健診に行った時、偶然、病院から出て来るあなたを見掛けたの。それで、様子が変だったから、何となく気になって……。ついね、お医者様に訊いちゃったのよ。あなたの病気のこと――」
「……そう……だったの、か……」
本来なら、離婚した妻に、病状を教えることなどないのだそうだが、信吾は今、一人で生活しているということだったし、強いショックを受けていて、心配だったということもあり、〝ここだけの話〟ということで、教えてくれたのだそうだ。
「その話を聞いた後だったわ。仁から、『会いたい』って内容の手紙が何通も届いて、困ってる……って、相談されたのは。……あなた、病気のことを知って、焦っていたんでしょう? 早く仁に会わなきゃって。もう、二度と会えなくなるかもしれないから……って」
泣き笑いのような表情で訊ねられ、信吾はうろたえ、落ち着きなく視線をさまよわせている。
仁の様子が気になった桃花が、チラリとそちらを窺うと、彼は真っ蒼な顔で、口を半開きにし、父親の背を見つめていた。
その顔を見て、父親の病のことを、仁も、今初めて知ったのだなと、桃花は覚った。
再び、胸がズキンと痛む。先ほどより、強い痛みだった。
何を思ったか、美智江は突然、その場に膝をつき、桃花を見上げると、
「伊吹桃花様。私の口から、このようなことを申し上げますのは、筋違いなことかもしれませんが……どうか、お願いいたします。この愚かな男のことを、お見逃しくださいませんでしょうか?……許していただきたいなどとは、思っておりません。むしろ、一生許さずとも構いません。ですがどうか……どうか、警察に被害届を出すことだけは、勘弁していただけないでしょうか?……このように情けなく、みすぼらしい男ではございますが、それでも、私の大切な人なのです。残りの人生、ほんの少ししかないとしても、出来る限り側にいて、支えてあげたいのです。どうか……どうか、お願いいたします!」
切々と訴え、床に頭がつくほどに深く、頭を下げた。