第5話 咲耶、黒幕の態度に怒りを爆発させる
立ち上がる前の、不安定な体勢だったからか、平手打ちをされた信吾は、足元をよろめかせ、床の上に横向きで転がった。
平手打ちをした人物――咲耶は、信吾の前で仁王立ちし、握り締めた両拳を戦慄かせながら叫んだ。
「この…っ、軟弱なろくでなしオヤジがッ!! 拳で殴られなかったことをありがたく思えッ!! さっきからウダウダウダウダウダウダと、情けないことばかり抜かしよって!! 貴様が両親以外から期待されてなかったとか、父親の死期が近かったから、息子に跡継がせて安心させてやりたかったとか、そんな個人的な事情など知ったことかッ!! 成人した息子までいるいい年をした大人が、いつまでもいつまでも、過去の話をグチグチグチグチグチグチと……恥ずかしいと思わんのかッ!? そんなしょーもないもん、聞かされる方の身にもなってみろっ、この唐変木ッ!!」
咲耶の足元では、両手を床につき、尻餅をついた姿勢の信吾が、自分より三十歳以上は年下の少女を、怯えたような目で見上げている。
自分が場を収めるつもりでいた龍生は、ソファから立ち上がったままの状態で、咲耶の啖呵を聞いていた。
その他の者達は、皆呆気に取られ、事の成り行きを見守っている様子だ。
「そんなくだらない話を聞くために、皆、ここに集まっているわけじゃないんだ!!――わかっているのか!? 貴様はまだ、一番大事なことを言ってないんだぞ!?」
腰を屈め、再び信吾の胸ぐらを掴むと、咲耶は鋭く睨みつける。
信吾は、彼女の凄まじい勢いに、すっかり呑まれてしまっていた。
口をポカンと開け、眉をハの字にして、首をすくませている様は、素行の悪い上級生にカツアゲされている、気弱そうな下級生の如くだった。
咲耶は、どこまでも情けない、信吾の様子に顔をしかめ、チッと舌打ちすると。
「謝罪だよ!! 貴様の口からは、まだ一度も、謝罪の言葉が出ていないじゃないかッ!! あれだけの事件を起こしておいて、謝らないとは何事だッ!?――べつに、私のことはいい。幼い頃のことなどほとんど覚えていないし、今更謝ってもらっても、何も感じんだろうしな。……だが、桃花は違う!! 恐ろしい目に遭ったのは、まだ昨日のことだ!! そんなにすぐ、忘れられるわけがない!! 桃花は今も苦しんでる!! きっとずっと、恐怖心と闘っているんだ!! それなのに――っ!!……桃花にあんな酷い真似をしておいて、貴様は一度も謝っていない!! 貴様、本当に悪いことをしたと思っているのか!? 反省しているのか!? 思っているなら、まず最初に貴様がせねばならんことは、謝罪することだろう!? 過去のどーでもいい話をする前に、何よりも先に、謝らねばいけないはずだ!! それなのに……っ、貴様いったい、どーゆーつもりなんだッ!?」
ソファから動けないまま、桃花は咲耶の言葉を聞いていた。
そして、咲耶が自分のことで怒ってくれているんだと思うと、胸が熱くなり、自然と涙が滲んで来た。
確かに、つい昨日のことではあるが、すぐに結太達が助けに来てくれたことで、それほど怖い思いなどしていないと、桃花は思っていた。
……咲耶の言葉を聞くまでは。
彼女の、『恐ろしい目に遭ったのは、まだ昨日のことだ!!』という台詞を聞いたとたん、桃花の体は、何故か小刻みに震え出した。
まるで、咲耶の言葉が、恐怖心を思い起こさせる、スイッチであったかのように。
……違うのだ。
本当は、ずっと怖かったのだ。
急に、大人の男に羽交い絞めされ、口をふさがれ、車に連れ込まれたことが。
その後も、二人掛かりで押さえつけられ、手首も足首も、粘着テープでぐるぐる巻きにされたことが。
口にも粘着テープを貼られ、言葉すら、発せられなくなったことが。
本当は、ずっとずっと怖かったのだ。
怖くて怖くて、堪らなかったのだ。
……だけど、大好きな人達を、心配させたくなかったから。
ずっと泣いていたら、怯えていたら、大切な人達の心をも、傷付けてしまう。――そう思ったから。
だから、忘れようとした。
考えないようにしようと思った。
胸の奥の、ずっとずっと深いところに閉じ込めて、蓋をして、思い出さないようにした。
そうしていれば、きっと……すぐに、忘れられると思ったから。
でも、違ったのだ。
忘れてなどいなかった。
少しも、忘れることなど……出来ていなかったのだ。
そのことを、たった今、咲耶が教えてくれた。
桃花はまだ、ほんの少しも、恐怖心を克服出来ていない――ということを。
「……咲耶、ちゃん……」
つぶやく桃花の両眼から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
しかし、その涙は……決して、恐怖心から生じたものではなかった。
自分がまだ、あの時の恐怖を忘れられないでいることを、わかってくれていた人がいる――。
そのことを知ることが出来て、嬉しかった。
親友だけは、わかってくれていたのだと……そういう気持ちから、こぼれ落ちた涙だった。
咲耶は信吾の胸ぐらを掴み、グイッと顔を近付けると、
「さあ、謝れ!! 桃花に謝れッ!!……そして、十年前に貴様が陥れようとした東雲さんにも!! 鵲さんにも!! 誘拐された兎羽さんにも!! それから……誘拐されたことがきっかけで、大怪我を負った秋月にもッ!!……さあ、謝れッ!! 貴様のせいで傷付いた、全ての人に謝れッ!! 謝りやがれぇええええええーーーーーーーッ!!」
押さえつけていた怒りの感情を、一気に吐き出すかのように、叫んだ。