第17話 誘拐事件の黒幕の元妻は語る・3
その後、美智江が語ったことを、かいつまんで説明すると、以下のようになる。
忠司の言葉や態度にショックを受けつつも、美智江は彼のことを、憎んだり、恨んだりすることは出来なかった。
むしろ、
『忠司さんの息子である信吾と結婚すれば、たとえ〝息子の嫁〟としてであろうとも、ずっと側にいられる』
などという邪な感情に、囚われていたくらいだった。
それでも最初の内は、必死に、その感情を押し止めていたという。
いくらなんでも、好きな人の側にいたいから、その息子の嫁になる――というのでは、信吾に対して失礼だし、何より、残酷過ぎる。
もし、自分が信吾の立場であったなら、とても耐えられない。
こんな身勝手な考えは、早く捨ててしまわなければ……。
そのために必要なこととして、美智江が考えたことは、〝信吾と距離を置くこと〟だった。
信吾と関わらないようにしていれば、忠司の姿が目に入ることもなくなる。
会うことのない状態が続けば、きっと……そのうちに、忘れられるはずだ。
そう信じ、美智江は勤めていた店を辞めた。
信吾との接点は、その店のみだったからだ。
それでも、信吾は諦めなかった。
急に姿を消した美智江を、血眼になって捜し回った。
その甲斐あって、数ヶ月後には、前の店とはかなり離れた土地で、やはりホステスの仕事をしていた美智江を見つけ出した。
美智江は、それでも信吾のことを拒み続けたという。
何度求愛されようと、首を横に振り続けた。
決して諦めない男と、決して首を縦に振らない女。
根比べのような日々が、しばらくの間続いた。
そんな中。
ある日、信吾と美智江に――特に、信吾に強いショックを与える出来事が起きた。
長年付き従ってくれていた、信吾の子分の内の一人が、他の組に移ることが発覚したのだ。
その上、以前から密かに好いていたらしい美智江を、自分の愛人にしようと、強引に迫って来たらしい。
幸い、他の子分からの報告を受けた信吾が駆け付け、間一髪で事なきを得たのだが……。
誰よりも信頼していた子分の裏切りに、信吾は、酷く打ちのめされてしまった。
幼い頃から気が弱く、小心者だった信吾は、組の中では孤立していた。
常に付き従ってくれている子分達も、心酔する忠司の息子だから、我慢して付いてくれているだけで、本心から側にいてくれる者など、ほとんどいなかった。
それでもたった一人、信じていられたのが、組を移ろうとし、美智江に強引に迫った、その男だったのだ。
その男にすら裏切られ、それまで、どうにか信吾を支えていたものが、ポッキリと折れた。
酒に溺れ、強くもないのに、同業の男達に喧嘩を売り、自暴自棄になって……信吾の心も体も、日に日にボロボロになって行った。
仕舞いには、覚せい剤にまで、手を出そうとしていたそうだ。
忠司がいち早く察知し、使用する前に、かろうじて止めることは出来たが、このまま放っておけば、またいつ、手を出そうとするかわからない。
親として、放っておけなかった忠司は、ある決意をもって、美智江に会いに来た。
「……忠司さんは、私の前でゆっくりと膝をついて、床に頭がつくほどに、深く頭を下げたんです。『どうか、息子の嫁になってやって欲しい。常に側にいて、あいつを支えてやって欲しい』、って……」
無表情のまま、美智江は淡々と語った。
それが余計に、周囲の者達には、痛々しく映った。
愛する人に土下座までされ、自分と違う男――息子と結婚してくれと頼まれる辛さは、いかばかりのものだろう。
〝忠司の息子と結婚すれば~〟などと、ちらっと考えたことはあったものの、自分が思うのと、相手から頼まれるのとでは、かなりの違いがあるのではないだろうか。
それでも、愛してくれた男が、目の前でボロボロになって行く様を見せられるのも、美智江には辛かったし、愛する男に、なりふり構わずといった風に、頭まで下げられてしまっては、放っておくことも出来なかった。
美智江はとうとう覚悟を決め、信吾との結婚を受け入れた。
結婚してから数年は、何事もなく、平和に過ぎたらしい。
美智江も、結婚するからにはと、忠司への想いを封印し、良い妻――仁が生まれてからは、良い母になろうと努力した。
しかし、仁が生まれてから数年後。
とうとう、恐れていたことが起きてしまった。――忠司との関係が、信吾にバレてしまったのだ。
関係と言っても、べつに、忠司と付き合っていたわけではない。
信吾より、ほんの少し前に出会っていたことを、知られたというだけだ。
だから、恐れるほどのことではない。
……そのはず、だったのだが……。
信吾はショックを受けたものの、黙っていたことで、美智江を責めたりはしなかった。
それどころか、何故か、それまで以上に、仁を可愛がるようになった。
不審に思った美智江が、そのことについて訊ねると、仁はとんでもないことを口走った。
『仁が俺に似なくてよかった。親父の子なら、きっと、組の跡目としてふさわしい子に、育ってくれるはずだからな』
美智江は、我が耳を疑った。
どうしてそういうことになるのかと、訳がわからなかった。
確かに美智江は、信吾と出会う前に忠司と知り合い、彼に恋をした。
だが、忠司からは、想いを受け入れてもらったことなど、一度もなかったのだ。
それは、信吾と結婚してからも同じだった。
忠司はあくまで、美智江を息子の嫁として扱い、美智江もまた、忠司には、夫の父として接していた。
――それなのに、何故――?
どうして信吾は、仁が自分の子ではなく、忠司と美智江の子だと、思い込んでいるのだ?
美智江は、深く傷付いた。
結婚してからは、あんなに必死に、忠司への想いを胸に閉じ込め、ひたすら、信吾の良き妻になろうと、努力していたつもりだったのに。
信吾と出会う前に、忠司と知り合っていた――その事実が露呈しただけで、まさか、不貞を疑われることになろうとは。
美智江はすぐさま、誤解を解こうとした。
仁は正真正銘、信吾の子だと。忠司とは、何もないのだと。
しかし、信吾があまりにも、『親父の子でよかった』『親父の子なら、俺に似ずに済むだろう』と、嬉しそうに笑うので……。
美智江は、否定することが出来なくなってしまった。
自分の子ではなく、父親の子であったことを喜ぶなど、どうかしている。
美智江には、信吾の気持ちが、とうてい理解出来なかった。
理解するどころか、腹が立って仕方なかった。
信吾が自分のことを〝出来損ない〟だと感じ、長年、コンプレックスに苛まれて来たことは、わかっていたつもりだったが……。
それでも、いったいどこの世界に、『不義の子でよかった』と、喜ぶ夫がいると言うのだ?
自分に自信がないのにも程がある。
第一、妻を疑ってまで、父親の子だと、思いたがるものだろうか?
「本当に、馬鹿な人です。呆れるほどの大馬鹿者ですよ。五十嵐信吾という男は……」
美智江はそう言うと、泣き出しそうな顔で笑った。
なんだかキリの悪い感じがしますが、第16章はここまでとなります。
お読みくださり、ありがとうございました!