第16話 誘拐事件の黒幕の元妻は語る・2
「いいえ。今にして思えば、覚えていないふりをしていただけなのかもしれません。当時の私は、それに気付くことが出来ませんでしたが……どちらだったにせよ、私の心を傷付けるには充分な出来事でした。信吾が忠司さんの前で、私を紹介した時……彼は顔色ひとつ変えず、こう言いました。『初めまして、お嬢さん。息子のこと、どうかよろしくお願いします』と」
その時のことを思い出したのか、美智江は握り締めていたハンカチで、そっと目元を拭った。
気の毒と言えば、あまりにも気の毒な美智江の話に、その場の者達の気持ちは、一気に沈みこんでしまった。
まさか、黒幕の元妻の、辛い失恋話を聞かされることになるとは、この中の誰一人として、予想だにしていなかったに違いない。
昼ドラほどドロドロしているわけではないが、この話の先を、このまま、高校生である龍生達に聞かせていて、大丈夫なのだろうか? もっとヘビーな展開に、なって来たりはしないだろうかと、鵲や東雲、兎羽などは、内心気にし始めていた。
(だ…っ、ダイジョーブだよなっ? これから先、ドロドロのぐっちゃぐっちゃな展開に、なって来たりはしねーよなっ?……仁の母ちゃんの恋心が信吾にバレて、そのまま逆上して、『コノヤロー!!』つって、仁のじーさんに向かって刀振り回して大暴れ……とか、そんな刃傷沙汰に、なって来たりはしねーよなっ?)
と東雲がヒヤヒヤすれば、
(まさか、仁のお母さんが、そんな辛い恋をしていたなんて……。でも、こんな話、仁の前でしちゃってもいいのか? 仁は、知ってたんだろうか?……今の仁の様子を見る限りでは、すごく落ち着いてるし、知ってたっぽい感じではあるけど……)
と、鵲は仁の心配をし、
(そうか……。仁くんのお母様、仁くんのお祖父様のことが……。仁くんのことは昔から知ってるけど、お家がお家だから、遊びに行ったりしたことは、一度もなかったのよね。お兄ちゃん自身は、何度か遊びにも行ってたみたいだけど……。だから、あの事件の時が初めてだったんだわ。仁くんのお家に入ったのって。あの時は、仁くんのお祖父様、ご病気で伏せってらしたから……。そーよ! そう言えば私ったら、ただの一度も、お祖父様のお顔を拝見したことがないんだったわ!……ああ。そんなに渋くてカッコイイお祖父様なら、一度くらいは拝見してみたかったなぁ~……)
……と、兎羽などは、ミーハー心をくすぐられていたりした。
しかし、他の誰よりも、この話に大きな衝撃を受けていたのは、咲耶だったかもしれない。
美智江の、『私の心を傷付けるには充分な出来事でした』という言葉に、自身でも驚くほど、動揺していたからだ。
咲耶は美智江の言葉で、今日の放課後、龍生から聞いた話を思い出していた。
屋上で、無人島に行った時のこと――龍生が、結太の泊まる予定の部屋に、盗聴器を仕掛けた話をしていた時、彼はこう言っていた。
『あの時は、幼い頃のことを少しも思い出さない咲耶に、少々苛立っていたからな』
『たぶん、あの時俺は……少し、病んでいたんだろうな』
『〝このままずっと、思い出してもらえないなら……いっそ、酷く嫌われでもして、咲耶の心に住み続けたい〟などと、バカげたことを考えたりもしていた』
そんなことを考えてしまうほどに……少し病んで来てしまうほどに、咲耶に『思い出してもらえなかった』ことは、龍生にとって、辛いことだったのだろうか。
そこまで辛い想いを、何年もの間、自分は龍生にさせて来てしまったのか?
そう考えたら、胸がズキズキと痛んだ。
罪悪感に、押しつぶされそうだった。
咲耶は片手で制服の胸元を掴みながら、龍生の様子を窺った。
彼はいつものポーカーフェイスで、動揺しているようには少しも思えなかった。
だが、それは彼が、小さな頃から感情を表に出さぬよう、訓練して来ているからかもしれない。
心の内では、美智江の告白に、少し前の自分の想いを重ね合わせて、暗い気分になってしまっているかもしれない。
長い間、龍生のことを忘れてしまっていたことを、龍生が許してくれたから、罪悪感など、ほんの一瞬抱いた程度で、消えてしまっていたが――。
(……やはり、もっとちゃんと思い出そう。幼い頃のことを。ユウくんと二人で、遊んでいた頃のことを。……そうしなければ、いけない気がする)
龍生の顔を盗み見ながら、咲耶は決意するのだった。
美智江はと言うと、気持ちを静めようとするかのように、深呼吸を何度か繰り返していたが、しばらくの後、顔を上げてまっすぐ前を見ると、ピンと背筋を伸ばした。
「申し訳ございません。少々、心を乱してしまいました。……もう大丈夫です。僭越ながら、話を続けさせていただきます」
過去に引き戻され、暗い想いに囚われていた心から、解放されたのだろう。
その瞳には、もう、迷いの色は微塵も感じられなかった。