第15話 誘拐事件の黒幕の元妻は語る・1
「私が五十嵐……五十嵐信吾と出会ったのは、三十数年前のことでした。その頃私は、ホステスをしておりまして、勤めていた店に客としてやって来たのが、信吾だったのです。そこで、どういうわけか気に入られてしまったようで、信吾は毎日のように店にやって来ては、私を指名しました。顔も性格も、私の好みではありませんでしたが、毎日毎日好意を示されたら、こちらも悪い気はしません。だんだんと、気持ちが傾いて行くのを感じました」
いきなり始まった美智江の昔語りに、戸惑う者もいた。
それでも、誰一人として、口を挟もうとはしなかった。
美智江は、事件と直接関係があるわけではない。
だが、だからと言って、全く関係のない話を、こういう場で語り始めたりはしないだろう。
きっと、その昔語りの中に、五十嵐信吾という人物を知るための手掛かりが、含まれているに違いない。
そう思い、皆は真剣に、美智江の話に耳を傾けていた。
美智江は、しばしの沈黙の後、深々とため息をつき、
「あの人は……信吾は、今でこそ、ただの大馬鹿者ですけれど、若い頃は、まだ可愛いところもある男でした。……いえ。馬鹿は馬鹿でしたけれど……性格は、もっと純粋だったと申しますか、素直と申しますか……。とにかく、あんな大それた事件を起こせるような人では、なかったのです」
そう言って、辛そうに目を伏せる。
皆は真剣な顔で聞き続けながらも、心の内では、
(……〝馬鹿〟という点は、否定しないんだ……)
などということを、一様に考えていた。
そう言えば、以前、龍生や東雲達が、五十嵐について話していた時も、揃って『バカ』だと評していた気がする。
あまりにも、バカだバカだと口を揃えられると、かえって好奇心が刺激されてしまう。
バカにも、いろいろあるだろう。
五十嵐信吾という男は、どういう類のバカなのだろうと、咲耶も桃花も、話の続きが気になり、ウズウズしてしまっていた。
美智江は、ハンカチを握り締めた手に視線を落としながら、再び語り出す。
「あの人をあんな風にしてしまったのは……たぶん……いいえ。確実に、私なのだろうと思います。私があの人を、犯罪者にしてしまったようなものです。先ほど若様は、『あなた方に罪はありません』と、お言葉を掛けてくださいましたね。大変ありがたいお言葉ではございますが、息子の仁に罪はなくても、私には、やはりあると思うのです」
「……そう思われる、ハッキリとした理由がある――ということですか?」
龍生が訊ねると、美智江は小さくうなずいた。
ハンカチを握る手に、強い力が加わる。筋張った細い手が、僅かに震えていた。
「五十嵐信吾に初めて会ったのは、勤めていた店で――と、先ほど申し上げました。それに間違いはございません。ただ……私は、信吾に会うより先に、彼のお父様――忠司さんと、その数年前、既に出会っていたのです」
「――忠司さんに? 出会っていた……というのは、そのままの意味ですか? それとも、何か特別な意味が?」
美智江の言葉に、何やら妙な含みを感じ、龍生は質問を重ねた。
彼女は再びうなずくと、
「忠司さんにとっては、どうということもない、ただの小娘との出会いに過ぎなかったのだろうと思います。ですが、私は違いました。彼と出会った時、私は……一目で恋に落ちてしまったのですから」
切なく笑いながら断言する。
とたん、その場にいたほとんどの者達が、
「えええーーーーーッ!?」
部屋中に響き渡るほどの、驚きの声を上げた。
「こ…っ、〝こい〟って、あの〝恋〟のことだよなッ!? 食う方の――いやっ、魚の〝鯉〟のことじゃねーよなッ!?」
「当ったり前だろッ? 何バカなこと言ってんだよトラっ!! 魚の方の〝鯉〟だったら、〝鯉に落ちる〟……って、ワケわかんなくなるじゃないかッ!!」
三人掛けのソファの後方に、いつの間にか東雲も移動していたらしい。
毎度のごとく、鵲と二人で、ギャーギャー騒ぎ始めた。
「もーーーっ! うるさいわよ、おにーちゃんも隼くんもっ!? まだお話は終わってないんだから、ちょっと静かにしててッ!!」
兎羽がくるりと振り返り、ギロリと睨みつける。
兎羽には頭が上がらないらしい二人は、即座に口を閉ざし、シュンとしたようにうつむいた。
龍生は、二人に呆れた視線を向けた後、美智江に対し、
「家の者が、大変失礼いたしました。どうかお気になさらず、先をお続けください」
謝意を表してから、場の雰囲気を立て直すため、穏やかな笑みを浮かべる。
美智江は『はい』と返事すると、視線を落とし、暗い顔で口を開いた。
「忠司さんとの出会いは、私にとっては、とても大きな出来事でした。その当時、私はまだ高校生でしたが、学校が終わって家に帰る途中、妙な男にからまれてしまい、困り果てていたのです。そこに彼が――忠司さんが颯爽と現れて、私を助けてくださいました。……彼は大人で、渋くて、男らしくて……とても素敵な男性でした。私は、完全に一目惚れしてしまったのです。忠司さんは、名前も告げずに立ち去ってしまいましたが、彼は有名な方でしたので、すぐに見つけ出すことが出来ました」
……まあ、有名は有名だろう。
今となっては、一般人には知られていないかもしれないが、その昔、この一帯で最後の任侠と謳われた男だ。
それにしても、忠司の正体を知った時、『近付かないようにしよう』とは、少しも思わなかったのだろうか?
思わなかったのだとしたら、美智江も、相当肝が据わっている。
仮に、『ヤクザはヤクザでも、任侠ヤクザだ』――と知らされていたのだとしても、一般人に、その違いがわかる者は、そう多くはいまい。ヤクザと知れば、それだけで震え上がるのが、普通の反応だと思うのだが……。
「忠司さんは、最愛の奥様を亡くされたばかり――ということを知った私は、彼に好きになってもらおうと、必死に努力しました。ですが、彼は少しも振り向いてはくれなかった。……子供と思われていたのでしょうから、当然なのかもしれません。それでも私は、彼を諦め切れず……。ある時、こう決意したのです。しばらくの間、彼の前から姿を消そう。そして努力して、女を磨いて、自分でもいい女になったと思えるようになったら、再び彼の前に現れ、想いを打ち明けようと――」
そこで言葉を切り、美智江は、自嘲するようにフッと笑った。
「……なのに、運命とは皮肉なものですね。忠司さんに再会することを夢見て、ひたすら頑張って来た女に、今度は、その息子と出会わせようだなんて……。店に信吾が現れた時、すぐに彼の息子だと気付きました。顔も性格も、忠司さんとは似ても似つかなかったけれど、五十嵐という苗字と、毎回、彼に付き従って来る男性が二~三人いたことで、ピンと来たんです。信吾の話から、忠司さんが再婚していないことを知った私は、信吾をだしにして、忠司さんに会いに行く計画を立てました。その計画は成功し、私は忠司さんに会うことが出来た。でも……」
語尾が震え、再び言葉が途切れる。
しんと静まり返る中、柱時計の音だけが、妙に大きく聞こえた。
それからしばらくして、美智江の口からこぼれ落ちたのは、
「再会した時、忠司さんは……私のことを、少しも覚えてはいませんでした」
という、残酷な現実だった。