第10話 桃花、龍生の要請を快く受け入れる
結太にジトッとした視線を向けられても、龍生は全く気にすることなく、
「そうだな。お互い、イチャついている場合ではなかったな。――伊吹さん、どうかな? やはり、どうしても家に来る気にはなれない?」
まるで何事もなかったかのように、桃花に問い掛けた。
桃花は困ったように、眉をハの字にしていたが、しばらくしてから顔を上げると、
「いいえ。わたしも行きます、秋月くんのお家」
まっすぐに龍生を見返し、迷いのない声で告げる。
「えっ!?……伊吹さん、ホントにいーのか? もう怖くねーの?」
慌てて訊ねる結太に、桃花はこくりとうなずいた。
「うん。まだ少し、怖い気もするけど……。でも、わたしにも関係のある事なら、ちゃんと知っておきたいの。犯人って人達が、どんな人なのかを。どーして、あんな事件を起こしたのかを。……でなきゃいつまでも、あの時の恐怖に囚われ続けて、うずくまって、そこから動けなくなっちゃう気がする。そんなのは嫌! だから……わたしも行きます。連れて行ってください!」
「……伊吹さん……」
普段は大人しく、周囲の庇護欲を掻き立てずにはおかないような、頼りなげな印象の少女なのだが、実は、芯はしっかりしているのだ。
そういうことが、この一ヶ月ほどの間、身近で見て来た結太にも、理解出来るようになっていた。
だが、
『いつまでも、あの時の恐怖に囚われ続けて、うずくまって、そこから動けなくなっちゃう気がする』
との言葉からは、やはり今も、誘拐された時の恐怖を、忘れられずにいることが窺い知れる。
……それも当然だろう。
誘拐されてから、まだ、たった一日だ。
すぐに救出されたからと言って、そんな簡単に、見知らぬ男達に攫われた時の恐怖が、消えてなくなるわけがない。
それでも、恐怖から逃げず、真正面から受け止め、前に進もうとすることの出来る桃花が、結太には、とても眩しく、美しく感じられた。
この人を好きになってよかったと、心から思えた瞬間だった。
龍生も感心したようにうなずき、穏やかな笑みを浮かべている。
どうやら、屋上での一件以来、桃花には一目置くようになったらしい。
「――そうか。ありがとう、伊吹さん。感謝するよ。だが、途中で気分が悪くなってしまったり、やはり会いたくないと、気が変わったりした時は、遠慮なく言ってくれ。直ちに心身共にケア出来るよう、こちらも善処する。実は、東雲の妹である兎羽さんは、看護師の資格を持っているんだ。家の都合もあって、職には就いていないけれどね」
「えっ?……そーなんですか?」
「ああ。だから、安心してほしい」
龍生の言葉にホッとしたのか、桃花は表情を和らげた。
それまでは、緊張のためか、少し顔がこわばっているように感じられたので、そんな桃花を見て、結太も安心して息をつく。
「よし、わかった。伊吹さんが行くんなら、オレも行く!」
「えっ!?……楠木くん?」
突然の結太の宣言に、桃花は驚き、思わず声を上げてしまった。
結太は両拳を握り締め、
「だってさ、伊吹さんを誘拐したヤツがどんなヤローであっても、ぜってー許せねーし! 一発ガツンと、殴ってやんなきゃ気が済まねーよ!」
「楠木くん……」
結太の横顔を見つめながら、桃花はジ~ンとしてしまっていたが、すぐにハッと我に返り、
「ダメだよ楠木くん! 脚、また痛くしちゃったんでしょう? だったら、お家でちゃんと休んでないと」
両手を胸の前で組み合わせ、心配そうに、潤んだ瞳で見上げる。
その瞳にドキッとしながらも、
「だ…っ、ダイジョーブだって! 痛くなったって言っても、ほんのちょっとだしさ。それに、今日病院行った時、大人しくさえしてれば、あと数日で、松葉杖なしで歩けるだろーって、医者に言われたんだ」
そう言って、結太はニカッと笑った。
桃花は、それでも左右に首を振り、
「だったら尚更、大人しくしてた方がいーよ! また無理しちゃったら、松葉杖にさよなら出来る日が、延びちゃうかもしれないでしょう?」
「……いや。けどさ――っ」
「悪いが、結太を連れて行くことは出来ない」
二人の話に割って入るように、龍生がキッパリと告げる。
結太は『えーーーッ!?』と声を上げ、恨めしそうに龍生を見たが、
「そんな目をしたって、ダメなものはダメだ。家の車の乗車定員は、五名だからな。今日は、助手席に東雲が乗って来ているから、後部座席は、俺と咲耶と伊吹さんで、ちょうど埋まってしまう。結太を乗せる余裕はない。諦めろ」
腕を組みつつ、龍生はもっともな理由を述べた。
それを言われてしまっては、結太も、引くことしか出来なくなる。
しかし、それでもまだ、未練たらしく、『じゃあ、一度帰ってから、オレを迎えに来てくれる……ってのは……?』と提案してみると、
「ふざけるな。何故わざわざ、おまえの我儘のために、安田に面倒なことを頼まねばならないんだ? ただでさえ、最近はずっと、安田には大変な負担を掛けてしまっていると言うのに……。甘えるのもいい加減にしろ」
と、一蹴されてしまった。
「……そっか……。だよな。ブンさんに、これ以上迷惑掛けるワケにゃー行かねーか……」
さすがに勝手が過ぎたと、結太も即座に反省したようだ。
「仕方ねーな。行くのは諦める。……けど、龍生」
真剣な顔で、龍生をじっと見つめる。
「なんだ?」
「オレの代わりに、伊吹さんのこと、よろしく頼む。これ以上、怖い思いはさせないでやってくれ。この通りだ!」
深々と頭を下げる結太に、桃花は驚きつつも、『ここまで、わたしのことを考えてくれてるなんて』と、ひたすらに感動していた。
それから、『もういいから、顔を上げて』と言おうとした桃花を片手で制し、
「当たり前だ。伊吹さんのことは、秋月家の名誉に懸けて、今度こそ総出で守り抜く。わざわざ、おまえに頭を下げられるまでもない。――わかったか、結太? わかったら、さっさと顔を上げろ」
龍生は、毅然とした態度で言い放つ。
結太は頭を下げた状態でニッと笑うと、上体を起こし、
「ああ! 信じてるぜ、相棒!」
そう言って、龍生の顔の前に、右ストレートを打ち込んだ。
龍生は、結太の拳を余裕で受け止め、軽く払うと、
「おまえの相棒になった覚えはないが、まあ、頼まれてやる」
真顔で答えてから、フッと笑った。