第3話 龍生、屋上で咲耶を抱き締める
放課後。
朝に約束したとおり、屋上で咲耶を待っていた龍生は、彼女が姿を現したとたん、ふわりと顔をほころばせた。
これから伝えなければならない内容を考えれば、笑っていられる心境ではない。
しかし、咲耶を目にすると、自然と笑みがこぼれてしまうのだから、仕方ないのだ。
付き合い始めたばかりの恋人同士というものは、得てしてそういうものではないだろうか。
音が響かないように、なるべく静かにドアを開け、屋上へ出る。
いつものように鍵を掛け、一応、誰もいないか周囲を確認してから、龍生は咲耶の手を取り、そっと抱き寄せた。
「――っ!……な、なんだいきなりっ? トートツ過ぎるぞっ?」
咲耶は真っ赤になって押し返そうとするが、龍生はそれを許さない。彼女の背中に手を回し、構わずギュッと抱き締めた。
「ちょ――っ!……こ、ここは学校だぞっ? こーゆーことは、ホントはしちゃいけないんだっ! 学生の本分は、あくまで勉強で……っ!」
「へえ。咲耶がそこまで勉強熱心だったとは。常に、学年二十位以内をキープしているほど、テストの成績が良いというのは、知っているけどね。……でも、いつだったか、『やれば出来る素質を持っているのに、やる気がほとんど感じられなくて困っている』と、君の担任の先生がボヤいているのを、耳にしたことがあるんだが……あれは本当? だとしたら、今の君の発言は、ただの建前ってことになるから、あまり信用出来ないな」
抱き締めたまま、耳元で、長々と痛いところを突いて来る龍生に、思わず顔が熱くなる。
「たっ、担任の発言まで知ってるって、おまえはいったい何者なんだっ!?――まさか、隠密行動でもしているのか!? それとも、この学校に、スパイでも潜り込ませているのか!?」
必死に体を離そうと、咲耶は思い切り力を込め、龍生の制服を引っ張った。
龍生はクスッと笑い、腕の中で暴れている彼女を、腕の中に閉じ込めるように、余裕で抱き締め続ける。
「隠密だのスパイだのって、大袈裟だな。職員室に用があって行った時に、たまたま耳にしただけだよ」
「ほ……ホントか? ホントに偶然かっ?」
疑っているかのような咲耶の問いに、龍生は『やれやれ』と心でつぶやいた。
今まで散々、咲耶を騙すようなことをして来たのだから、疑われても仕方ないのだが……露骨に疑われるのは、やはり寂しい。
「本当だよ。ただの偶然。……酷いな。そんなに俺のことが信用出来ないのか?」
わざと、拗ねた口調で問い返す。
すると、龍生の腕の中から逃れるため、ずっと制服を引っ張り続けていた咲耶の手が、ピタリと止まった。
「むぅぅ……。『信用出来ないのか?』、だと?……母親に部屋の写真を撮らせて、桃花に見せると言って脅して来たり、楠木の泊まっている部屋に、盗聴器を仕掛けたりするような奴が……。まったく。よく言えたものだ」
咲耶が呆れ気味で口にした台詞から、龍生は、あの日のことをまざまざと思い出した。
二人で無人島に渡り、遅咲きの桜を見た――まだ、咲耶に告白する前のことを。
「――ああ。そう言えば、そんなこともあったな」
再びクスリと笑うと、龍生は、咲耶の髪に顔を埋める。
そして思い出しながら、正直な想いを打ち明けた。
「あの時は、幼い頃のことを少しも思い出さない咲耶に、少々苛立っていたからな。苛立って、寂しくて……『俺のことを思い出してくれ』と願う一方で、思い出さない方が、咲耶のためだとも思っていた。……矛盾してはいるが、どちらも俺の本心だった。それに……自分で言うのもなんだが、たぶん、あの時俺は……少し、病んでいたんだろうな。『このままずっと、思い出してもらえないなら……いっそ、酷く嫌われでもして、咲耶の心に住み続けたい』などと、バカげたことを考えたりもしていた。……ああ。だが、念のために言っておくが、いつもあんなことをしているわけではないよ? 盗聴器を仕掛けたのは、あの時が初めてだったし、もちろん、あれ以降は使ったことがない」
「…………」
沈黙したままの咲耶に、不安げに問う。
「……信じられない?」
「…………いや。信じる」
少しの沈黙の後、咲耶はキッパリと言った。
一気に嬉しくなった龍生は、
「フフッ。……ありがとう、咲耶」
そう言って、咲耶のこめかみに、軽いキスをした。
一時、大人しくなっていた咲耶が、再び激しく暴れ始める。
「だっ、だからっ!! いきなりこーゆーことするなって言ってるだろッ!? 時と場所をわきまえろっ!!」
「学校でのキスは禁止――ってこと?」
耳元で訊ねると、咲耶はブンブンと大きく、首を縦に振ってから、
「そ…っ、そーだッ!! 普通はそーだろッ!? 高校生なんだからッ!!」
当然と言うように断言する。
龍生はしばしの沈黙の後、微かに首をかしげ、
「早い者は、小学生の頃に、キスを経験しているらしいぞ? それに比べたら、俺達はかなり遅れていると言えるな」
どこからの情報だか知らないが、そんなことをさらりと言って、咲耶をギョッとさせた。
「えええッ!?……う……嘘だッ!! 小学生が、そんなことするわけないだろッ!?」
「いいや? なんでも、それ以下って人もいるらしい」
「それ以下ぁッ!?……って言ったら……よ、幼稚園生ッ!?……う……嘘だッ!! 嘘だ嘘だッ!! 絶……っ対に嘘だッ!! ホントだとしても、どーせほっぺたに――とかだろ!? それならまだわかる!!」
「ふぅん……。ま、そう思いたければ、思っていればいいよ。だが……」
思わせぶりに言葉を切り、龍生は沈黙した。
結構長めの沈黙に痺れを切らし、咲耶は顔を上げて問い掛ける。
「な――っ、なんだ!? 『だが』ってなんだッ!?」
「……べつに。ただ……咲耶は何もわかっていない――ってことさ」
今度は思わせぶりにフッと笑われ、咲耶はカチンと来た。
「なんだとッ!? いったい、何をわかってないってゆーんだッ!?」
「そうだな。たとえば……」
龍生は耳元で、わざと妖しい雰囲気を纏わせ、ささやく。
『キス以上のことを、高校生のうちに経験している人間は、咲耶が考えている以上に、多く存在する……ってこと』
「な――っ!」
絶句した後、咲耶の顔も体も、見る見るうちに赤く、熱くなった。
龍生は、咲耶が固まってしまっていると知るや、ニヤリと笑い、髪やこめかみ、頬などに、キスの雨を降らす。
十数秒後。
龍生の両手が肩に置かれ、目の前に、顔が迫って来ていることに気付いた咲耶は、カッと目を見開き、
「わぁあああああーーーーーーーッ!!」
大声を上げると共に、思い切り龍生の体を突き飛ばした。
そして、涙目で龍生を睨むと、
「もうヤダッ!! やっぱり別荘なんか――っ、無人島なんか行かないッ!! おまえと二人っきりでとか、絶対絶対無理ッ!! 絶対絶対絶対行かないィイイイイイーーーーーーーッ!!」
と、声を限りに叫んだ。