第1話 離れの居間で東雲は生ける屍と化す
安田が龍生を送って行ってから、一時間ほど経過した頃。
秋月邸の離れのリビングでは、生ける屍と化した東雲が、両手をテーブルの上に投げ出した状態で突っ伏していた。
東雲の右手の横には、スマホが。左手の横には、白い便せんと、封筒と、ボールペンが。何やら、書き掛けの状態で放り出されている。
便せんの一行目には、〝退職願〟と書かれているが、それ以外は空白だ。
部屋には、大きな柱時計の音だけが、カチコチと響いている。
その音さえ聞こえなければ、まるで、時が止まってしまったかのように、辺りは静まり返っていた。
それからまた、一時間ほどが過ぎた。
東雲は相変わらず、ピクリとも動かない。
死んでいるのでは?――と心配になって来るほど、動く気配すらなかった。
そんな、時が止まったかのようなリビングに、遠くから、パタパタと足音を立てながら、誰かが近付いて来た。
カチャッと音がして、ドアが開くと共に、宝神が姿を現し、東雲に目を留めると、
「虎ちゃん! あんた、こんなとこにいたのかい!? 隼ちゃんが、あんたのこと捜してるよ! 昼までに片付けたい仕事があるから、手伝ってほしいんだってさ!」
入り口付近で声を掛けるが、東雲は突っ伏したままだ。
宝神は首をかしげ、テーブルに近付きながら、
「ちょいと虎ちゃん? あんたいったい、何やってんだい? こんなとこ――……で?」
便せんに書かれた、〝退職願〟の文字を認めたとたん、
「はああッ!? 〝退職願〟だってぇ!?……なんだいこりゃあ!? どーゆーことなのさ虎ちゃん!!……虎ちゃん? 虎ちゃんっ!? 虎ちゃんったら!! 起きなよホラっ!!」
肩に手を置き、大きく揺さぶる。
東雲の大きな体が、ガックンガックンと揺れ動き、そこで初めて、東雲が反応した。
「……う?……ん、あぁ……お福さんかぁ……。何? 俺に……何か、用……?」
寝惚けているのか、それとも、意識が朦朧としているだけなのか、東雲は、ぼんやりとした顔で宝神を見つめた。
宝神は、呆れたように腰に両手を当て、ギロリと睨みつける。
「『何か用?』――じゃないよッ!! こんなとこで油売って、どーゆーつもりだいッ!? もっとシャキッとしなっ!! 隼ちゃんが捜してるって言ってんだろッ!?」
大声で叱り付けるが、東雲はぼんやりとしたまま、
「んぁ……? サギがぁ……?」
と言った後、椅子の背もたれにドサッと上半身を預け、天井を見上げた。
本当に、いったいどうしたと言うのだろう?
東雲は、余程の事情でもない限り、仕事をサボるようなことは、絶対にしない男だ。
それが、こんなにやる気のない様子で、リビングで座り込んでいるなどと……。
宝神が、堂々とサボっている東雲を見掛けたのは、これが初めてのことだった。
「ちょいと虎ちゃん。本当にどーしちまったってゆーんだい? それにこの、書き掛けの便せんと封筒は何なのさ? 〝退職願〟って、あんたまさか……本気で考えてるわけじゃないだろーね?」
宝神の問いに、東雲は力なくフッと笑った。
「いやぁ? 本気ですよぉ?……俺なんかもう……辞めるしかねーんだ……。坊ちゃんにあんなこと言って、本気で怒らせちまうなんて……。俺なんて……俺みたいな役立たずは、坊ちゃんにはもう、必要ねーんですよ……。いや。俺なんていない方がいーんだ。その方が坊ちゃんのためなんですよ……。うぅ……うっ、うっ」
今度はさめざめと泣き始め、服の袖で、涙を拭ったりしている。
「なんだいなんだい? また何か仕出かして、坊ちゃまにお叱りを受けちまったのかい?……まったく。懲りないねぇ、あんたも」
宝神は呆れつつも、エプロンドレスのポケットから白いハンカチを取り出し、東雲の前に差し出した。
東雲は、『すいません、お福さん』と言って、そのハンカチを受け取る。
両手で広げて顔に当て、洗顔後に水分を拭き取る時のように、ゴシゴシとこすった。
「――で? 今度はどんなことをしちまったんだい? 〝退職願〟なんてものまで書いてるところを見ると、よっぽどのことをしちまったんだろ? 聞いてあげるから、話してみなよ虎ちゃん」
「うぅ……。それが――……」
かくかくしかじかと、東雲が事情を話すと、宝神は目を丸くして驚いた。
「へえっ? 坊ちゃまと保科様が、二人きりで、夏休みに無人島へ? それを龍之助様もお許しになって、坊ちゃまも、すごく喜んでらしたのかい。……で、それを、あんたの一言で台無しにしちまった――と」
「……はい……。そーです。すいません……」
「アタシに謝ったってしょーがないだろ。――で、坊ちゃまには、すぐに謝罪したんだろーね?」
「そりゃあもちろん!! 今朝、何度も何度も謝罪したって!!……けど……」
暗い顔でうつむく東雲に、
「坊ちゃまは、聞く耳を持ってくださらなかった……ってことかい?」
宝神が訊ねると、彼は無言のままうなずいた。
彼女は、呆れながらも首をかしげる。
「でもさ。いくら坊ちゃまが口を利いてくださらないって言ったって、〝退職願〟まで書くのは、ちょいと大袈裟過ぎやしないかい? 坊ちゃまだって、いくらなんでも、このままずーっと無視し続けるなんて陰険な仕打ちは、なさるはずもないだろうしさ。あんたが数日我慢すりゃあ、いいだけのことじゃないのかい?」
宝神が、こういった楽観的な意見を述べるのにも、一応、理由があった。
東雲と鵲の両名は、事前に審査を行った上で雇い入れられた、安田や赤城などとは、だいぶ事情が違う。
無理矢理させられたとは言え、あんな事件を起こし、行く当てのなかった二人を、龍生と龍之助の恩情でもって、特例で雇ってもらったようなものだ。
そのことを、二人も重々承知している。
だからこそ、彼らの、龍生と龍之助に対する忠誠心は、かなり強いものなのだ。
龍生も龍之助も、そんな彼らだからこそ、信用し、常に側に置いている。
しょっちゅう、何かしらのミスを繰り返しているにも関わらず、重用しているのだ。
今まで繰り返して来た失敗のことを考えれば、とっくの昔に、クビになっていてもおかしくない。
それでも雇い続けているのだから、今更こんなことくらいで、東雲がクビになるとは、とうてい思えなかった。
さすがに、『クビになっていてもおかしくないのに、まだ雇ってもらえているのだから、大丈夫』などという、正直なところは言えなかったが、曖昧な言葉で励まし、『大丈夫だよ』と、東雲の肩に手を置く宝神に、それでも東雲は、頑なに首を横に振る。
「いいや。ダメなんだよ、お福さん。坊ちゃんのお怒りは、どうやら今までの比じゃねーんだ。……俺、今朝は坊ちゃんに口利いてもらえなかったから、安田さんに伝言頼んだんだ。……けどな? 朝、安田さんから連絡あって、言われちまったんだよ。『どうやら私も、龍生様のお怒りを買ってしまったらしい。だから、頼まれていたことも伝えられなかった。すまん』……って――」
「ええっ!? あの、坊ちゃまのご信頼が厚い安田さんまで、坊ちゃまのお怒りを買っちまっただって!?」
ギョッとして目をむく宝神に、東雲は、小刻みに何度もうなずく。
「そーなんだよ!! あの安田さんですら、坊ちゃんのお怒りを静めらんなかったってんだから、もうお仕舞いだろ!? 安田さんがダメなら、他の誰に取り成してもらったって、結果は同じだってわかんだろ!?……だからもう……為す術ねーんだ。俺は終わりなんだ。……おわ…っ、終わり……終わりなんだよぉおおおおーーーーーッ!!」
テーブルに勢いよく突っ伏し、東雲は再び、声を上げて泣き始めた。