第16話 龍生、不機嫌を押し隠し車外を眺める
車の後部座席で腕と脚を組み、能面のように表情のない顔をして、龍生は、窓の外を見るともなしに眺めていた。
表情がないのは、ふつふつと湧いて来る怒りを、どうにかして堪えようと、必死になっているからだ。何も考えていないからではない。
むしろ、昨夜はいろいろと考え過ぎて、ほとんど眠ることが出来なかった。
その寝不足状態が、更に怒りを増幅させ、龍生をより無表情にさせているのだろう。
「龍生様。ご機嫌斜めでいらっしゃる時に、恐縮なのですが……少々、お話させていただいてよろしいでしょうか?」
ふいに、運転席の安田が、まっすぐ前を向いたまま、声を掛けて来た。
龍生は、体も顔もピクリとも動かさず、
「ああ。べつに構わん。――何だ?」
抑揚のない声で答える。
「はい。……実は今朝、東雲に泣きつかれまして」
そこで初めて、龍生の眉がピクリと反応した。
だが、すぐに無表情に戻り、
「その名は、今は聞きたくない。――不愉快になる」
やはり、抑揚のない声で返すのだった。
安田は苦笑し、
「昨夜は、母屋で大変な失言をしてしまったと、あの者が申しておりましたよ。今朝も、お伝えしたいことがあったのに、存在を一切無視され、朝の御挨拶すら返していただけなかったと、それはもう、この世の終わりのような顔をして。……フフッ。あのような大男が、小さな子供のように、目にたくさん涙を溜めて訴えて来るのですから、こちらは堪ったものではありません。どのようなことがあったのかは、あの者から聞き及んではおりますが……」
「安田」
「はい」
「その者の話は聞きたくないと、言ったはずだが?」
ほんの少しだが、声に感情が戻って来た。
龍生は、やや不満げな様子で返す。
「――おや。左様でございましたか? 私には、『その名は、今は聞きたくない』と聞こえてしまったのですが。私は、『あの者』や『あのような大男』とは申しましたが、名などは一切、口にしておりませんよ?」
「…………詭弁だ」
今度は、明らかにムッとしたような含みが感じられた。
「保科様との夏のご予定を、台無しにされてしまったことが、そこまでお気に障られましたか?」
「当たり前だ。少なくとも、嬉しいわけがない」
「あの者の言うことなど、お気になさらなければよろしいではありませんか。何も、ご予定の白紙撤回までなさる必要はなかったのでは?」
「あんな言い方をされて、気にせずにいられるものか! 皆に、そういうことをしに行くための旅行なのだと、思われてしまったに決まっている!」
「それでは、いけないのですか?」
「――は!?……おまえ、何を言っているんだ? いいわけないだろう! そんな好奇な目に晒された中、呑気に旅行に出掛けられるほど、俺は能天気ではない! 第一、格好が悪過ぎる!」
「格好がお悪くても、よろしいではございませんか」
「何…ッ!?」
「大切なのは、お二人のお気持ちでしょう? 周りにどう思われようと、行きたいというご意思が、おありになるか否かです。龍生様が、あくまで体面をお気になさり、行かないという選択をなさるのであれば、それもよろしいでしょう。ですが、龍生様がそう選択なさったことを、保科様がお知りになられましたら、どう思われますでしょうか? お二人でお決めになられたことを、龍生様の独断で、中止になさったとお知りになられましたら……さぞや、ガッカリなさるのではありませんか?」
「く――っ!……それは……」
龍生は一瞬、その顔に迷いの色を浮かべた。
しかし、迷いを払うように軽く首を振ると、
「だが、俺がそういう目で見られるということは、咲耶も同様ということだぞ!? 彼女がもし、周囲の者達にそんな目で見られていることを知ったら、絶対に行きたいなどとは思えなくなるはずだ! 人一倍、羞恥心の強い女性なのだからな」
咲耶の性格を考慮し、龍生はキッパリと言い切る。
それでも、安田は引こうとはしなかった。しばしの沈黙の後、
「……やはり、今の段階で、そう決断なさいますのは、尚早なのではないでしょうか。保科様のお気持ちを、直接確かめることもなさらずに、決めつけてしまわれるのは、いかがなものかと思われますが?」
「――何? 俺が、咲耶の気持ちをわかっていないとでも言いたいのか?」
「そうは申しておりません。保科様のお気持ちを、一方的に決めつけてしまわれる前に、ご本人にお確かめになられた方がよろしいのでは――と、申し上げているのです」
「それは、わかっていないと言っているのと同じだろうが!……もういい。ここで降りる。車を停めろ!」
「学校まで、残り二百メートルほどございますが?」
「構わん! ここで降りる!」
「……承知しました」
安田は、車を端に寄せて停まると、後部座席のロックを解除した。
ドアが開き、龍生は、素早く鞄を掴んで降車する。
「いってらっしゃいませ」
安田が声を掛けても、返事はなかった。
いつもであれば、『行って来る』か、『ああ』か、はたまた無言でうなずくか。何かしら、必ず返して来るのだが……。
(こんなことは初めてだな。……どうやら東雲同様、私も、相当のお怒りを買ってしまったらしい)
周囲には、学校へ向かう、数人の同校の生徒達がいて、その内の何人かの女生徒らから、黄色い声が上がっていた。
龍生もいつもであれば、よそ行きの〝王子様スマイル〟のひとつでも、その集団に対して向けているところだ。
しかし、今は相当機嫌が悪いためか、笑顔ひとつ見せず、黙々と歩いて行ってしまった。
車内から、その様子を見送っていた安田は、重要なことを思い出し、
「ああ、しまった。東雲から伝言を頼まれていたのに、龍生様にお伝えすることが出来なかったな……」
そう言って、軽く頭を掻いたのだった。