第9話 咲耶、断固として『拗ねていない』と言い張る
咲耶の頬からそっと手を離すと、龍生はクスクス笑いながら謝った。
「すまない。拗ねる君が、あまりにも可愛らしかったものだから、つい、嬉しくなってしまって」
「だっ――! だからっ、拗ねてないと言ってるだろうッ!? 何度言ったらわかるんだッ!?」
胸の前で両拳を握り、あくまでも言い張る咲耶に、龍生は『はいはい』と言った風にうなずき、
「わかったわかった。咲耶は拗ねてない。拗ねてはいない――……が、俺と、出来るだけ長い間一緒にいたいと思っている。これならどうだ?」
彼女の頭に片手を置き、首をかしげて、顔を覗き込むようにして訊ねる。
咲耶は、驚いたように口をパクパクさせていたが、すぐにキッと睨みつけ、
「そ――、そんなこと思ってないッ!! い……一緒にいたい、なんて……思ってないッ!! 思ってないぞそんなことはッ!?」
顔を真っ赤にしながら言い放つ。
龍生は余裕の表情でフフッと笑い、彼女の頭を数回撫でた。
「なるほどなるほど。これも外れたか。それは残念だな」
「――って、『わかったわかった』とか、『なるほどなるほど』とか、二回続けて言うなッ!! 何か、すっごくバカにされてる気がするッ!!」
「バカになんてしてないよ。咲耶が素直になってくれないから、俺の方が拗ねたくなって来ただけだ」
「――えっ?」
龍生の言葉にヒヤリとし、咲耶の顔色が変わった。
「す……拗ねたく、って……。どっ、どーゆー意味だ?」
たちまち弱気な顔つきになり、龍生の腕を掴んで見上げて来る。
その頼りなげな様子も可愛らしく、思わずギュッと抱き締めたくなったが、既のところで堪えると、咲耶の髪を、わざとワシャワシャと撫で回した。
「な――っ! ば、バカッ! 髪がグシャグシャになるだろう!? やめろっ!!」
慌てて頭を押さえ、咲耶は二~三歩後ずさる。
……それでいい。
至近距離にいられると、すぐに抱き締めたり、キスしたくなってしまうので、ある程度離れていてくれないと困るのだ。――特に今夜は。
「ほら。拗ねているのでなければ、もう行こう? お福が待ちくたびれてしまう」
苦笑してから、龍生は再びドアノブへと手を伸ばし、カチャリと、ほんの少しだけドアを開けた。
「ほら。忘れ物をしないよう――」
言いながら振り向くと、咲耶はバッグを手に持つこともせず、暗い顔でうつむいている。
「……咲耶?」
龍生の呼び掛ける声にも、咲耶は全く反応しない。その場から、動こうともしない。
……本当に、いったいどうしたと言うのだろう?
こんな咲耶は初めてだなと、龍生は戸惑い、どういう態度を示せばいいのかすらわからぬまま、彼女を見つめていることしか出来なかった。
すると。
「…………嫌だ」
ほんの少しかすれた声で、咲耶がポツリとつぶやいた。
「え?……今、『嫌だ』――って言ったのか?」
驚いて訊き返す。
咲耶はようやく顔を上げ――……たと思ったら、意外にも、そのまま龍生の胸に飛び込んで来た。
「――っ!……咲耶? どうしたんだ、いったい――?」
咲耶の方から抱きついて来るなど、珍しいにもほどがある。
顔を見られたくなくて、胸元に顔を押し付けることならあったが……。
――と言うことは、これもそういうことなのだろうか?
戸惑いを払拭し切れぬまま、龍生は咲耶の背に、そっと腕を回した。
咲耶は更に強く、ギュッと力を込めて抱き締めて来る。
「……咲耶? 本当に、どうしたんだ? いつもの君らしくな――」
「わかってる!!――こんなの全然私らしくない!! わかってるんだ、そんなことはッ!!」
龍生の言葉をさえぎり、咲耶は涙声で訴える。
どう答えていいのかわからなかった龍生は、咲耶を刺激しないよう、そうっと頭に手をやり、優しく撫で始めた。
「……わかってるんだ。私の言ってることが、滅茶苦茶だってことも。勝手だってことも。……だって、自分でもよくわからない。こんな気持ち初めてで……どうしていいかわからない。……わからない――けど、でも……。まだ、帰りたくないんだ」
「――っ」
瞬間、龍生の背筋を、ゾクゾクッとした感覚が突き抜けた。
……この感覚は知っている。
別荘で、咲耶が龍生の指の血を、舐め取ってくれた時。
――あの時も、ちょうどこんな感じがした。
「……自分で『帰る』って言ったくせに。決めたくせに。……おかしいって思う。でも――!……でも……。変だってわかってても……我儘だってわかってても……まだ……まだ、帰りたくない! もっと一緒にいたいッ!! おまえの傍にいたいんだッ!!」
腹の底から振り絞るような声で想いを吐露され、龍生の我慢も限界に達した。
万感の想いを込め、強く、きつく、抱き締め返す。
「咲耶――! 俺だって同じだ。出来ることなら、君を帰したくない。帰さずに、君を――。君をこのまま、俺の――っ」
そこでピクリと、龍生の肩が揺れた。
それから、こんなに近くにいる咲耶にさえ、聞き取れないほどの微かな声で、何やらつぶやき、少しずつ、少しずつ、咲耶の背から腕を解く。
「……秋月……?」
不思議そうに見上げる咲耶の唇に、龍生は素早く人差し指を当てた。――喋るな、と言うことだろうか?
よくわからないまま、咲耶が小さくうなずくと、龍生もうなずき返してから、くるりと後ろを振り返った。
すかさず、
「おいッ!! ドアの外にいるのは誰だッ!? 逃げても無駄だっ、出て来いッ!!」
周囲がビリビリと震えそうなほどの、大声を上げる。
――ドアの外?
誰かいる?
咲耶はドキドキしながら、龍生とドアとを、交互に見比べていた。
微かに開いていたドアが、ゆっくりと、大きく開いて行き――……。
「……す――っ、すみませんっ、坊ちゃん!!」
「も、申し訳ありませんっ!!」
そこに立っていたのは、両手を体の脇にピッタリとつけ、顔が見えないほどに深く頭を下げた、東雲と鵲だった。