第8話 龍生、手際良く帰り支度を手伝う
咲耶が一晩泊まった客間に入ると、二人は黙々と荷物をまとめ始めた。
少し前までの甘い雰囲気はどこへやら。龍生は、咲耶とほとんど目を合わせることもなく、クローゼットに収納されていた服を取り出し、テキパキとたたんでは、咲耶に渡して行く。
会話と言えば、『ここには何か入ってるのか?』や、『もうあそこは確認したか?』という、荷物に関することばかりだった。
そうして、五分もしないうちに、すっかり帰り支度を整えると、龍生はぐるりと部屋を見回した。
「よし。これで全て片付いたな。――咲耶、忘れ物はないか? バスルームの確認も済ませただろう?」
バッグのファスナーを、考え事をしながらゆっくり閉めていた咲耶は、龍生から問い掛けられたとたん、ハッと顔を上げた。
それから、問われたことを頭の中で反芻し、コクリとうなずく。
「あ、ああ。……大丈夫だ」
「そうか。それでは早速、荷物を持って下に行こう。モタモタしていると、夕食が冷めてしまうからな」
早口で告げてから、龍生は、一番大きな咲耶のバッグを持ち、部屋のドアを開けようと、ドアノブへと手を伸ばした。
すると、服が何かに引っ掛かったような感覚がし、反射的に振り向くと――咲耶が上着の裾を片手で掴み、何か言いたげな瞳で、こちらをじぃっと見つめていた。
「……咲耶? どうかしたのか?」
不審に思って訊ねる。
咲耶は不服そうに唇をへの字に結んでから、伏し目がちに、何やらつぶやいた。
「――え? 今、なんて言っ――」
「そんなに早く私を帰らせたいのか!?――って言ったんだッ!!」
「…………え?」
一瞬、意味がわからなかった。
咲耶がどうしても『帰る』と言うから、引き止めたいのを我慢して、こうして、支度まで手伝ったのではないか。
――まさか、急に帰りたくなくなったのだろうか?
……いや。
それならそれでいい。龍生にとっては、嬉しい心変わりというものだ。
しかし――。
「何を言っているんだ? 咲耶が帰ると言ったんだろう?」
龍生は両手を腰に当て、首をかしげて訊ねる。
心変わりしたならしたで、その理由を知りたいと思ったのだ。
咲耶はうっと詰まると、深くうつむき、
「それは……そう、だが……。でも、そんなにサッサと……荷物を、まとめられて……しまう……と……。まるで……」
モゴモゴと、口の中でつぶやくような話し方は、普段の咲耶らしくない。
龍生は、裾を掴んだままの咲耶の片手に、自分の指を絡めるようにして引き離すと、そのまま、ギュッと握り締めた。
「どうしたんだ、咲耶? 言いたいことがあるなら、俺の目を見て言ってくれ。うつむいたまま話されても、よく聞き取れない」
意見して来る龍生にムッとしたのか、咲耶は顔を上げて睨みつける。
「ああ、そーか! そんなに早く、私に帰ってほしいんだな!? よーくわかった!!」
「――は?……本当に、さっきから何を言っているんだ? 俺がもう一晩泊まるだろうと訊いた時、『帰るに決まっている』と言ったのは、咲耶の方じゃないか。俺はもちろん、泊ってほしかったさ。だが、君がどうしても帰ると言って、聞かなかったんだろう?」
「そーだよ! 帰ると言ったのは私だよ! でも、そんなに急いで、支度を整えることないじゃないかッ!!」
声を荒らげ、思いきり睨みつけて来る咲耶の瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
龍生は息を呑み、しばらく呆然としながら、咲耶を見返していたのだが……。
ふいに、フッと優しく笑ってみせると、彼女の頬に片手を当て、
「……なんだ。拗ねていただけだったのか」
柔らかい声で告げると、彼女の頬の輪郭を、親指でスッと撫でた。
「――っ!……ち、違うッ!! 拗ねてなんかいないッ!!」
一瞬にして顔をバラ色に染め、咲耶はカッとなって言い返す。
龍生はクスクス笑いながら、今度は頭に片手を持って行き、軽くポンポンと叩いた。
「はいはい。拗ねてなんかいない、ね――。『帰り支度は、もっとゆっくりしたかったのに』という気持ちが、拗ねているというのでなければ、どういう感情なのかな? 俺にもわかるように、しっかりとした説明がほしいところだが?」
「だ、だから違うッ!! 拗ねてるんじゃないッ!!……わ、私は……ただ……帰り支度を急ぐ理由は、私を早く帰らせたいからかと……私と、長い間一緒にいるのは、嫌――なのかと……。そっ、それがちょっと気になったから、訊いてみただけだッ!! 拗ねてたんじゃないッ!!」
「……へえ――……」
意味ありげな笑みを浮かべ、龍生がじっと見つめると、咲耶はますます真っ赤になり、ブンブンと首を横に振った。
「違うッ!! 絶対違うったら違ぁーーーうッ!! 拗ねてなんかないッ拗ねてなんかないッ!! 私はッ、絶対絶対ぜぇーーーッたいッ、拗ねてなんかいないんだからなーーーーーッ!!」
(ああ……。そんなに長く、思い切り首を振っていたら――……)
龍生が心配していると、案の定、咲耶は目が回ってしまったようで、『ふやぁ……』という、咲耶らしからぬ間の抜けた声を上げ、足元をふらつかせた。
見兼ねた龍生は、両手を広げて、咲耶を前から抱き止める。
「ほら。ムキになって頭を振り過ぎるから、こういうことになるんだ。……まったく。困ったお姫様だな」
龍生の腕の中で我に返った咲耶は、慌てて顔を上げ、
「だっ、誰がお姫様だッ!! またそーやって、すぐ人のことをからかって――ッ!!」
悔しそうに睨んで来るが、龍生は真剣な表情で彼女を見返す。
「からかう? 俺はからかってなどいないよ。俺にとって、咲耶はこの世でたった一人の、大切なお姫様だからね」
「な――っ!……ば、バカを言うな! 『お姫様』なんて、私にはちっとも似合わない! そんな言葉が似合うのは、私じゃなく――もっとずっと可愛らしい――も、桃花みたいな子だ!!」
「そんなことはない。俺にとっての姫は、咲耶だけだ。似合うとか似合わないとか、そういう問題じゃない。それに――君は、自分のことを少しもわかっていないようだが、君ほど、美しく煌びやかなドレスが似合う女性は、滅多にいないよ。俺が保証する」
「どっ、ドレスッ!?……な、ななな何言ってるんだ!? あんなヒラヒラフワフワしたもの、この私に似合うわけがないだろうッ!?……おまえ、絶対目が腐ってるぞ! ダイジョーブか!?」
……妙な心配をされてしまった。
しかも咲耶は、ドレスと言えば、〝ヒラヒラフワフワ〟したものばかりだと思っているらしい。
(ドレスには、もっと大人っぽい、〝ヒラヒラ〟も〝フワフワ〟もしていない種類のものもあるんだが……。咲耶のドレスのイメージは、幼稚園児が夢見るような、子供っぽいデザインのものばかりらしい。……もったいないことだ。こんなにも、美しい容姿を持って生まれて来たというのに――)
龍生は、咲耶の頬を、両手で包み込むようにして上向かせると、まじまじと見つめる。
……やはり、どこをどう取っても美しい。
緩くカーブした、細くもなく太くもない、整った眉の形。クッキリとした二重の、吸い込まれそうに綺麗な目。横から見ても正面から見ても、完璧なまでに綺麗な角度で、鼻筋の通った鼻。上唇より、下唇の方がやや厚みのある、輪郭が整って、ツヤも血色も良い、弾力のあるプルプルとした唇。スッキリとした顎のライン。そして何より、ツヤもハリもコシもある、まっすぐで豊かな黒髪――。
「……本当に。憎らしいほど美しいな、咲耶は」
自然とため息が漏れてしまう。
咲耶は、頬を挟んでいる龍生の両手に、自分の両手を重ね、どうにかして外せないかと悪戦苦闘しながら、
「ば――っ!……バカかおまえはッ!? 史上最強の大うつけなんだなっ、おまえはぁあああああッ!?」
これ以上赤くなれないというくらいに顔を赤く染め、照れ隠しに罵った。