第7話 宝神、いそいそと夕食の配膳を開始する
内線電話で、龍生と咲耶が離れに向かっていると、赤城から連絡を受けた宝神は、慌ててテーブルのセッティングを開始した。
別荘でもそうだったが、今朝も、咲耶は気持ちいいほどの食べっぷりを見せてくれた。
龍生は小食の方なので、普段、あまり作り甲斐というものを感じられずにいる宝神にとって、咲耶は、ありがたい存在になりつつあるのだ。
(う~ん……。この程度の量じゃ、やっぱり足りないかねぇ? 赤城さんに聞いたところによると、今日はお二人とも、すごく疲れることがあったって話じゃないか。きっと、いつも以上にお腹空かせてらっしゃるに違いないよ。……ふぅむ。もう二~三種類くらい、作っておいた方がよさそうな気もするねぇ)
宝神は一人うなずくと、キッチンに戻り、鵲や東雲の夜食用にと取っておいた食材を使い、追加の料理を作り始めた。
そうして、数分が経った頃、玄関のドアが開いたことを知らせる(玄関のドアが開くと、鳴る仕組みになっている)ベルが鳴った。
宝神は料理の手を止めると、この家の主(母屋の主は龍之助だが、両親のいない今、離れの主は龍生ということになっている)を迎えるため、玄関へと向かう。
「おかえりなさいませ、龍生坊ちゃま」
「――ああ。ただいま、お福」
龍生は二階に向かうため、階段の一段目に足を掛けているところだったが、宝神の声に振り返り、ニコリと笑った。
(――あら。今日は坊ちゃま、かなりご機嫌がよろしいこと)
龍生は普段、誰に対しても、薄い笑みしか見せない。
どんなに気を許した相手に対してであっても、こうやってニッコリと笑い掛けることなど、年に数回、あるかないかなのだ。
(……おや? それに比べて、お隣にいらっしゃる保科様は、だいぶうつむいて……。ご気分でもお悪くていらっしゃるのかね?)
宝神が心配するのも無理はないほど、咲耶は深くうつむいて、顔色すら見ることが出来ない。
気分が悪いなら、薬を用意しておいた方がいいだろうかと、宝神が思っていると、
「た――、ただいま……です、宝神さん。あの……私、今日家に帰りますので、荷物を持って来ます。泊まらせていただいたのは、たった一日でしたが、お世話になりました」
咲耶はそう告げると、ぺこりと頭を下げた。
今日で帰るなどと、赤城からは何も連絡を受けていない。宝神は『あら』と目を見開いてから、残念そうに顔を曇らせた。
「今日? もうお帰りになられるんですか?……まあまあ。そんなこと、少しも聞いておりませなんだ。坊ちゃま、本当なのですか?」
咲耶が嘘をつくはずもないだろうが、一応、確認のために訊いてみる。
龍生は再びニコリと微笑んで、
「ああ。俺はもう一晩泊まって行くように言ったんだが、どうしても帰ると言って聞かなくてね。咲耶は頑固だから、一度こうと決めたら、梃子でも動かないんだ。困ったものだよ」
言いながら、咲耶の頭を数回撫でる。
咲耶はビクッとしつつも、顔を伏せ、何を言い返すでもなく、大人しく撫でられている。
龍生は龍生で、『困ったものだよ』と言っている割には、最初と変わらず、とても機嫌が良さそうだ。
(……はあはあ。なるほど。保科様がずっとお顔を伏せていらっしゃるのは、ご気分がお悪いわけじゃなく、照れていらっしゃるだけなんだね。いつも威勢の良い方が、妙に大人しくしていらっしゃると思ったら……。ふんふん。こりゃあ、坊ちゃまと何か――恥ずかしいと思える〝何か〟が、おありになったってことなんだろうねぇ)
即座に察した宝神は、龍生が上機嫌な訳を、それ以上追究しようとはせず、
「お帰りになられるとしましても、御夕食はこちらでお召し上がりになりますでしょう? 保科様――いえ、お二人のために、お料理もたくさん、ご用意しておりますし……」
どうしても気になる、その部分だけを訊ねた。
「そうか。咲耶のためにと言うのであれば、かなりの量、作っておいてくれたんだろうな。――咲耶。お福が腕によりをかけて、君のために作ってくれたそうだよ。食べて行ってくれるだろう?」
「う……。ああ――、それは、もちろん……」
「まあ! ありがとうございます、保科様! それでは、すぐお召し上がりになれますよう、ご用意しておきますね」
宝神は、嬉しそうにパチンと両手を合わせると、キッチンへと戻ろうと踵を返した。
――が、何か思い出したかのように、再びくるりと体を半回転させると、『坊ちゃま。少々こちらへ』と手招きする。
「ん?――なんだ? どうかしたか、お福?」
龍生は怪訝顔で宝神に近付いて行くと、背の低い彼女の体に合わせ、腰を屈めた。
すると、宝神は龍生の耳に口を寄せ、咲耶には聞こえないよう、小さな声でささやく。
「坊ちゃま。保科様と御一緒にいられるのはあと少しだからと言って、焦ってはいけませんよ? 婚前交渉なさるおつもりでしたら、別の日にしてくださいましね?」
「――っ!」
思わず大声を上げそうになり、龍生は慌てて、口元を片手で押さえた。
まさか、宝神から――長年仕えてくれている女中頭から、そこまで具体的な注意を受けるとは、思ってもいなかったのだ。
「な――、何を言っているんだ、お福? 俺はべつに、そんなこと、少しも考えてなど――っ」
龍生にしては珍しく、動揺しているような声だった。
何事だろうと、咲耶がそちらに視線を移すと、思いきり龍生と目が合う。
「う――っ。……だからそれは――っ」
龍生は素早く目をそらし、宝神に向かって何かを告げた。
宝神は、一言二言龍生に返すと、顔だけを咲耶に向け、
「それでは。私は失礼いたしますね、保科様。ホホホホホ……」
何故か、朗らかに笑いながら行ってしまった。
咲耶はきょとんとして見送り、再び龍生に視線を移す。
「……秋月? 何かあっ――」
「ないッ!! 何もないッ!!」
咲耶が『何かあったのか?』と訊ねるより先に、龍生はさえぎるように断言した。
これも、龍生にしては珍しく、顔を赤くしてうつむいている。
――どうしたのだろう?
宝神に、いったい何を言われたのだ?
気になって、訊いてみようとしたとたん、龍生は早足で歩いて来て、咲耶の手を取った。
そして、
「早く部屋に行こう。俺も、帰りの支度を手伝うよ」
赤い顔のまま目をそらし、咲耶の手を強引に引っ張って、階段を上って行った。