第5話 安田、じれったい二人を見かねてお節介をする
送ってもらう車中では、結太も桃花も、体を前に向けたまま、ひたすらうつむいていた。
少しでも顔が横を向いたら、また目が合い、気まずい思いをするかもしれない。――そう意識してしまうと、体が硬直して、視線すら動かせなくなってしまうのだ。
べつに、ケンカをしたわけではないのだから、何か話さなくては。
互いに、そうは思うのだが、思えば思うほど、何を話せばいいのかが、わからなくなって来る。
秋月邸から結太の家までは、車なら十分――いや、五分も掛からないかもしれない。
もう少しで着いてしまう。
だから早く。早く何か言わなければ――!
「あの――っ!」
ほぼ同時に、結太と桃花が声を上げ、顔を横に向けた。
とたんに目が合い、二人は慌てて前を向く。
「な…っ、何っ?……今、何か言おーとしたっ?」
「う、うんっ。……でも、あのっ……楠木くんも、何か言おーとしてたよねっ? お先にどーぞっ」
「えっ、いや――っ!……い、伊吹さんからどーぞっ」
「ええっ!?……あ……あの……。でっ、でもやっぱり、楠木くんからどーぞっ?」
「えええっ!?……いや! やっぱ、伊吹さんこそ――っ」
「ううんっ。楠木くんから――っ」
(……ああ……。キリがない)
後部座席で繰り広げられている、『そちらからどーぞ』の応酬。
その不毛さに、安田は二人に気付かれぬよう、小さくため息をついた。
(なんともじれったいお二人だ。龍生様が仲を取り持って差し上げたくなるお気持ちも、理解出来なくはないな)
安田も、特に聞き耳を立てているわけではないのだが、聞こえてしまうのだから仕方がない。
しかし、だからこそ運転手には、守秘義務を守れるだけの、口の堅さが要求されるのだ。
たまに、有名人の家を、一般の客に教えてしまうというような、タクシードライバーの話を聞くことがある。
有名人であろうと一般人であろうと、客の個人情報を、本人に断りもなく、他の人間に教えてしまうというのは、あまりにも、職業意識に欠けた行為に思える。
安田はそういう人間を、心底軽蔑していた。
それほど真面目に、忠実に、職務を遂行出来る男だからこそ、秋月家の人間から、長年信頼を得ているのだ。
「結太様。あと三分ほどで、マンションに到着します。――どうか、お忘れ物などなさいませんように」
後部座席の二人が、いつまで経っても、『そちらからどーぞ』の応酬をやめる気配がなかったため、安田はもどかしくなり、とうとう結太に声を掛けた。
彼の台詞をストレートに訳せば、『もう少しで家に着いてしまうぞ。彼女に言いたいことがあるなら、さっさと言ってしまいなさい』――ということになるのだが、結太には伝わらなかったようで、
「えっ?……あ――、そ、そっか。……うん、ダイジョーブ。リハビリ行く時は、小銭入れと健康保険証くれーしか持ってかねーから。それはちゃんと、ポケットに入ってるし……。忘れ物なんて何もないよ、ブンさん」
などと、呑気に笑っている。
(……違うのです、結太さん。〝忘れ物〟は、本当の〝物〟などではなく――)
安田は思わず、『あ~もう。しょーがないな』と言いたい気分で、返事をしようと口を開き掛けた。
すると、
「あ。そっか。楠木くん、まだリハビリに通ってたんだよね?……えっ――と……今日は行かなかったの? それとも、もしかして……わたしのために、休ませちゃったの……かな?」
申し訳なさそうな顔をして、桃花が結太をじっと見つめた。
結太は慌てて、
「えっ?――あ、いや――っ!……べ、べつに、伊吹さんのせーじゃねーよ! リハビリ一回休んだくれー、どーってことねーし! それに、もーほとんど痛くねーっつーか、治ってる感じなんだ! だから全っ然、気にしなくていーから!」
「……でも……」
「いやっ! ホントにホント!! マジでホントだからッ!! 無理してっとかじゃねーんだ。もーほんっと、痛くも痒くもねーっつーか。……なっ? だから安心してっ?」
「…………」
必死に言い募るが、桃花は暗い表情で、どんどんうつむいて行く。
これはマズいと焦った結太は、
「ホントにいーんだって!! オレの脚なんかより、伊吹さんの方がよっぽど大事だからッ!!」
……うっかり、本音を洩らしてしまった。
「…………え?」
桃花はゆっくりと顔を上げ、驚いたように目を見開いている。
瞬間、自分が何を口走ったかに気付き、『あ……!』と発すると、結太は真っ赤になって固まった。
安田は心の内で、『でかしましたよ、結太さん』とつぶやきつつ、車を停めると、
「結太様。マンションの前に到着いたしました」
何食わぬ顔で、目的地に着いたことを伝える。
結太は、ホッとしたように安田に顔を向け、
「あ……うっ、うん! ありがとなブンさん!……じゃ、じゃあ伊吹さん。また明日、学校でっ」
早口で告げると、ドアを開けて、車から降りようとした。
「あっ!――楠木くん、脚っ!」
まだ、トランクから松葉杖を出してもらっていない。
桃花は心配して声を掛けたが、結太は振り向きもしないまま、
「うん。だからもーダイジョーブなんだ。松葉杖は念のために使ってるだけで、両脚とも痛くねーんだよ」
やはり、早口で答える。
いくら痛くないと言っても、リハビリしているくらいなのだし、急に無理するのは良くないのではないかと伝えるため、桃花は口を開こうとした。
だが、素早くトランクから松葉杖を持って来た安田に、『ありがとな、ブンさん』と礼を言い、桃花に『じゃ、また明日!』ともう一度告げると、結太は逃げるように帰って行ってしまった。
(……楠木くん……。もう少し、話していたかったな……)
結太の背を見送りながら、桃花は心でつぶやく。
安田は、想い人のことを考える余裕を、桃花に一~二分ほど与えてから、
「出発してよろしいですか、伊吹様?」
前を向いたまま、穏やかな声で訊ねた。