第4話 龍生と咲耶、落ち着かない夜を過ごす
大きめのバスタブの湯船に浸かりながら、龍生は先ほどの咲耶とのやり取りを思い返していた。
最初は、いつものように、可愛らしくうろたえる咲耶の表情を、見てみたいと思っていただけだった。
いつものように、少し意地悪なことを言って、怒らせたり、戸惑わせたり、恥ずかしがらせたりして、くるくる変わる表情を、愛でたいと思っていただけだったのだ。
……だが、あの表情は予想外だった。
まさか咲耶が、あんな表情をしてみせるとは、露ほども思っていなかった。
潤んだ瞳で見上げられることは、今までにもあった。
言葉では強気なことを言いつつも、どこか心細さを抱えているような表情が、とても可愛らしく、それを見たいがために、何度も怒らせるようなことをした。
今日も、その表情を引き出したいがために、色々と仕掛けたつもりだった。
それなのに――。
(……参ったな。あんな表情――艶っぽい顔をされては、こちらが冷静ではいられなくなるじゃないか。……危うく理性を失ってしまうところだった)
咲耶の潤んだ瞳には、いつものような可愛らしさ、頼りなさだけではなく……いや、それ以上に、何かを訴えているような、求めているような、匂い立つばかりの色気が感じられた。
ただでさえ、人を惹き付けずにはおかない、美しい顔立ちをしている咲耶だ。あんな顔をされては、普通の男なら、簡単に悩殺されてしまうに違いない。
「……危なかった……」
思わず、本音が漏れる。
あと少し……ほんの僅かな間でも、咲耶に次の行動を起こされていたら、龍生も即座に落ちていた。
たとえば、咲耶の方から腕を伸ばし、頬や髪、首筋、腕――とにかく、どこでもいい。体のどこかに触れられていたら。
あの時初めて聞いた、色気を感じさせる声で、何か一言でもささやかれていたら……。
『秋、月……』
「――っ!」
瞬間、咲耶の声が耳元で聞こえたような気がして、ハッと目を見開く。
まだ耳の奥に、あの時の――咲耶の艶めかしい声が残っている。
その声が、脳内で再生されるだけで、龍生の全身は熱くなり……脳内は、沸騰しているのではないかと錯覚させるほど、強い熱を帯びた。
(……まったく。どこから来るんだ、あの艶っぽさは? 普段の咲耶からは、想像も出来ない)
気が付くと、龍生は胸を掴むように押さえ、苦しいほどに暴れまくっている心臓の音を、確かめるように聞いていた。
これほどまでに、龍生の胸を高鳴らせられる相手は、この世の中で、咲耶以外にはいないだろう。
(……ダメだ。もう上がろう。このままでは、のぼせてしまいそうだ)
龍生はゆっくりと立ち上がってバスタブから出ると、シャワーの蛇口を思い切り捻った。
その頃。
咲耶は秋月家の客間で、ベッドに横たわっていた。
龍生の部屋から戻って来てから、もう一時間ほどは経つと言うのに、未だ妙な感覚からは解放されずにいる。
咲耶は不可解な想いを抱え、落ち着かない夜を過ごしていた。
ベッドに仰向けになりながら、両腕で、大きな枕をギュッと抱き締める。
(……なんだろう。なんだか、ずっと落ち着かない。秋月の部屋に入ってすぐは、宝探しをしてやるつもりで、すごくワクワクしていたのに。……なのに、秋月が……急に、押し倒して来て……変なこと言ったり……する……から……)
『俺は常に――君に触れたい、キスしたいと思っているからね』
「――っ!」
龍生の台詞を思い出したとたん、全身が熱くなる。
咲耶は胸の上にある枕を、更にギュギュウッと抱き締め、顔を埋めた。
(うぅぅ~~~っ。何が『触れたい』『キスしたい』だっ、バカバカッ! こっちが許す前に、勝手に髪にキスしたり、頬っぺたに触ったりしてたじゃないかぁっ)
咲耶の脳内で、龍生に言われた台詞や、ささやきや、魅惑的な微笑みが、何度も繰り返し再生される。
そのたびに胸が高鳴り、何とも言えない甘美な感覚が、咲耶をそっと包み込むのだった。
(うぅ…っ。おかしい。……どーして秋月は、いつもあんなに余裕があるんだっ? ドキドキさせられるのは、いつも私の方ばっかりで――……ズルい! ズルいズルいっ! ズルいじゃないかっ。どーしていっつも、私ばかりがこんな目に遭うんだっ?……だいたい、私のことがずっと好きだった――とかって言っていたが……その割に、女慣れしてる感じがするのは何故だ?……そーだ。そーだよ! そー言えば桃花の手も、どさくさに紛れて、握ったりしてたこともあったじゃないか!……女慣れしてない男が、いきなりあんなこと出来るものか? 出来てしまうものなのか?……私と、キスした時だって……少し驚いてはいた、が……特に、照れているようにも思えなかったし……)
咲耶の中で、龍生に対する疑念が芽生え、プスプスと燻ぶり出した。
龍生のことを信じたい気持ちはあるが、女生徒達から、かなり好意を抱かれている彼が、今まで誰とも付き合ったことがないというのは、どうしても不自然に感じられ、納得出来なかったのだ。
(やはり……もしかして……私と再会する前に、誰かと付き合ったりしたことが……あるのか? だからあんなにも……余裕が……?)
咲耶が疑念を持つのも、仕方ないことだとは思うが……。
龍生は本当に、咲耶一筋だ。
女慣れして見えるのは、パーティーなどに呼ばれた時、女性の相手をさせられたり、エスコートを求められたりすることが多かったからで、他に付き合った女性がいたから――というわけでは、決してない。
しかし、上流社会の事情など、全くわからない咲耶は、一人であれこれ考えを巡らし続け……。
とうとう、その日はほとんど眠れぬまま、小鳥のさえずりを聞く羽目になった。




