第9話 結太、松葉杖姿で秋月家の送迎車を待つ
結太が退院した次の日。
マンション(賃貸契約を交わした時の書類には、一応そう書かれていたが、見た目は〝アパート〟と言った方がしっくり来る建物だ)の一階で、結太は松葉杖をつきながら、秋月家の車を待っていた。
久しぶりの学校だと思うと、少々緊張もするが、朝の空気は、梅雨の季節が近付いている割には、カラリとしている。空も青く澄んで、柔らかく吹く風が心地良かった。
こういう天気を味わえるのも、あと少しだと思うと、余計ありがたく感じられる。
(あと二ヶ月で夏休み、か……。なんか信じらんねーな。これまでは、一学期の最初から夏休みまでは、すっげー長く感じられたのに……。今年はいろいろあったせいかな? 妙に、時が過ぎんのが早い気がするぜ)
青い空にぽかりと浮かぶ、真っ白な雲を目で追いつつ、結太はそんなことを考えていた。
よく、同じ時間の長さでも、辛かったり苦しかったりすると長く感じ、楽しかったり嬉しかったり、毎日が充実していたりすると、短く感じられる――などという話を聞くが、まさにそんな感じだった。
(やっぱ、二年になって、伊吹さんと同じクラスになれたってのが、一番大きな原因なのかもな。伊吹さんのこと見たり、考えたりしてっと、時間なんてあっという間に過ぎちまってるもんな。……伊吹さん。今日、クラスで会えんだよな。……あー、早く会いてー)
桃花が見舞いに来てくれた日から、まだ数日しか経っていないというのに、もう会いたくて仕方なくなっている。――恋とはせっかちなものだ。
早く学校に行きたいと、結太はジリジリしながら、秋月家の車の到着を待った。
(龍生、早く来ねーかなぁ……。送ってってもらえるだけでもありがてーんだから、贅沢言っちゃいけねーけど……一分でも一秒でも早く、伊吹さんの顔が見たい)
その時ふと、土曜日に見舞いに来てくれた、桃花との楽しい時間が頭をよぎった。
――と同時に、何故か、イーリスの顔までもが。
(イーリス、か……。そう言やー、退院するってこと、結局伝えらんねーままだったな)
屋上で出会った日から、イーリスの姿を見ることは、ただの一度もなかった。
特別室は違う階にある(確か、最上階だったはずだ)とは言え、どこかですれ違うことくらいはあるかと思っていたのだが、甘かったようだ。
せめて、退院するということだけでも伝えたかったのだが、特別室に入院している人に会うのは、すごく大変らしい――という噂を耳にし、病室に行くのは諦めたのだった。
なんでも、看護師達でさえ、書類(?)にサインなどをして、病院や本人(または、親族などの関係者)から許可を取ってからでないと、入室すら出来ないらしい。
特別室を利用するのは、政治家、大企業の社長やその関係者、芸能界やスポーツ界などの有名人、著名人らがほとんどだそうなので、セキュリティが特に厳重なのだ。
イーリスに友達認定されたのだから、遠慮する必要などない。気軽に会いに行けばいい。
――そうも思ったのだが、やはり、結太のような一般庶民は、うかつに近寄ってはいけない類の人、という気がして……。
結局、看護師さんに、イーリスのことを訊ねてみることすら出来なかった。
(何も言わずに退院して来ちまって……イーリス、今頃怒ってっかな?……でも、たった一度会ったヤツのことなんか、すぐ忘れちまうか。どーせ、住む世界が違う子なんだろーし……。龍生なら、この先どっかで会うよーなことも、あんのかもしんねーけど……オレはねーだろーしなぁ……)
〝住む世界が違う〟というのは、嫌な考え方なのかもしれないが、イーリスの通っている聖令女学院は、良家のお嬢様が半分以上占める学校――という話だ。
どう考えても、超お嬢様学校に通う子と、有名校でも進学校でも、お金持ちが通う学校の生徒でもない結太が、この先会う機会があるとは思えなかった。
(明るくて、良い意味でお嬢様らしくない、気さくな子だったけど……もう会うことはねーんだろーな。……寂しい気もすっけど、それが現実ってもんなんだ。家柄が違うっつっても、男の龍生ならダチになれても、女の子じゃなぁ……。やっぱ、気後れしちまうし)
べつに、恋人になろうというわけではないのだから、そこまで考えなくても……という気が、しないでもない。
友達を家柄で選ぶなど、失礼この上ない。――とも思うのだが……。
自己肯定力が低い結太には、美人で裕福で、おまけに両親共にスウェーデン人というイーリスが、自分のような何のとりえもない人間と、真剣に『友達になりたい』と思っているなどとは、とうてい信じられないのだった。
(ごめんな、イーリス。せっかく、自然に話し掛けて来てくれたのに……。もう会うことはねーんだろーけど、こんなオレにも優しくしてくれて、すっげー嬉しかったよ。お陰で、いー思い出が出来た。……ありがとな)
空を仰ぎ、まだ病院にいるであろうイーリスに、一人想いを馳せていると……静かに黒塗りの車が近付いて来て、結太の前でピタリと止まる。
後部座席のドアが自動で開き、中から龍生の声がした。
「待たせたな、結太」
軽くうなずいてみせると、隣で人の気配がし、結太は反射的に横を向く。
そこにはいつの間にか安田がいて、
「結太様、お荷物をお預かりいたします。松葉杖もトランクにお入れしますので、どうか私におつかまりになって、車にお乗りください」
そう言って、結太に両手を差し出した。




