第4話 龍生、飛び出した咲耶を庭園で捉まえる
「咲耶待って! 待ってくれ、頼むっ!」
そう言って手を伸ばすと、龍生は咲耶の腕を掴んだ。
離れの庭園内、数十メートルほど先にある、東屋付近だった。
「何故止めるッ!? おまえの代わりに訊いてやるってだけだろう!? それの何がいけないんだ!?」
立ち止まり、不満げに振り返った咲耶は、睨むように龍生を見上げた。
まっすぐな視線。その瞳の美しさに、一瞬見惚れてしまったが。
今はそんな場合ではない。強く目をつむり、大きく息を吸って気持ちを落ち着かせると、もう片方の手を、そっと咲耶の肩に置いた。
「いけないとは言っていない。……ただ、祖父には祖父の事情がある。それをわかってほしい」
「わかるかそんなものッ!! 孫が誘拐されたってのに、犯人を見逃すなんておかしいだろう!?――そう言ってやらなきゃ、私の気が済まん!!」
「……咲耶」
龍生は苦しげに眉根を寄せる。
呼び掛けられた声の切なさに、咲耶の胸はキュッと痛んだ。
「ど――っ、……どーして、そんな顔するんだ? 私は、おまえのためを思って……。なのに、そんな顔されたら……」
うろたえた咲耶は、睫毛を伏せてうつむく。
自分は、間違ったことをしようとしているのだろうか?
過去の事件について知りたいと思うのは、そんなにいけないことなのか?
不安になった咲耶は、冷静になろうと胸元を押さえ、何度か呼吸を繰り返す。
すると、大きく脈打っていた鼓動が、徐々に小さくなって来て、頭まで、スッキリしたように感じた。
落ち着いたところで、改めて自分の行動を振り返ってみると、カッとなって飛び出して来てしまったことが、とても子供っぽく思えて来る。
直情的な言動がひたすらに悔やまれ、恥ずかしくて、顔が上げられなくなった。
黙り込み、うつむいて、顔を赤くしている咲耶の頬を、両手で包み込むようにして上向けると、龍生は優しく微笑む。
「ありがとう。俺のために、怒ってくれていたんだろう?……それは素直に嬉しいんだ。ほとんど覚えていないにしろ、誘拐された時は、君だって怖い思いをしたはずなのに……。それでも、俺のことを真っ先に考え、気遣ってくれたのかと思うと、嬉しさで心が震えたよ」
龍生の熱い視線に、咲耶はたちまち恥ずかしくなり、慌てて目をそらした。
彼の手の温もりが、じんわりと、心にも体にも沁みて行くようで……ホッとしつつも、ドキドキと胸が高鳴る。
「べ、べつに……お礼なんて、必要ない。私がそうしたいと思ったから、しただけだし……」
…………あれ?
……おかしいぞ?
どうしてこんなにも、ドキドキしているのだろう?
ほんの一~二分前までは、あんなに腹を立てて、『理由を訊いて来てやる!』などと、息巻いていたはずなのに。
なのにどうして……今はこんなにも、顔も体も熱くほてり、鼓動が大きくなっているのだ?
「咲耶……」
少し低くて、甘い声が、ささやくように名を呼ぶ。
それだけで、苦しいくらいに、胸が締め付けられる。
……違うのに。
こんな展開になることを恐れて……避けていたはずだったのに。
なのに、どうして……?
どうして今は、龍生に甘くささやかれることに、喜びを感じてしまっているのだろう?
「……秋、月……」
顔を上げると、龍生の顔が、すぐ目の前まで迫っていた。
いけないと思いながらも、咲耶はうっとりと目を閉じ、彼の唇が重なるのを待つ。
…………だが。
いくら待っても、何も起こる気配はなかった。
不審に思って目を開けると、龍生の顔は、目を閉じる前とほとんど変わらぬ位置にあり――。
そして何故か、怖い顔をして固まっていた。
「秋――」
「シッ!……静かに」
声を掛けようとした咲耶を、龍生は小声で制する。
いきなりどうしたのだろうと、咲耶がきょとんとしていると、少し離れたところから。
「バカッ、じっとしてろ! 坊ちゃんに気付かれちまうだろーがっ!」
「ごっ、ごめん! 足元に虫がいたもんだから……」
「虫なんかにいちいちビビってんじゃねえよっ! いいとこ見逃しちまうだろっ!?」
微かではあるが、確かに、聞き覚えのある声が聞こえる。
再び小声で、『すまない。少し待っていてくれ』と告げると、龍生は声のした方へと、足音を立てないように近付いて行った。
ヒソヒソ声は、バラの植込みの陰から、漏れ聞こえていた。
樹の隙間から窺うと、案の定、鵲と東雲が、大きな体をうんと丸めるようにしてしゃがみ込んでいる。
二人は、更に声を小さくし、
「この前のレア写真と動画は、消去させられちまったんだ。今度は上手くやらねえと。……たぶん、これが坊ちゃんのファーストキスだろうしな。記念に、しっかりこの目に焼き付けとこうぜ」
「うん。ホントは見るだけじゃなく、写真にも残しておきたいけど……。また坊に見つかっちゃったら、大目玉食らっちゃうしね。今度こそ、ゲンコツひとつじゃ済まないよ」
とっくに発見されていることにも気付かず、二人はコソコソと話し続ける。
「リビングで坊ちゃんにガツンとやられた時ゃあ、ぶったまげたよな。今まで、手を上げたことなんか一度もなかったのによ……」
「よっぽど恥ずかしかったんだろうね。保科様の歯形にキスしてたってことが、お二人に知られちゃったことが」
「まあ、歯形にったって、痕に直接ってんじゃなく、包帯の上からだけどな」
「それでも同じだろ。もし俺だったら、死ぬほど恥ずかしいよ」
「だよなぁ? しかも、いつも完璧って感じの、あの坊ちゃんが……だぜ? 世の中にゃあ、〝ギャップ萌え〟ってもんもあるらしいが、女側から見て、あーゆーギャップはどうなんだろうな? 『ヤダ、意外っ。可愛い~っ』ってな感じになんのかねぇ?」
「アハハハっ。……うん。俺は可愛いと思うけどなぁ」
「ヒャハハッ。おめーは坊ちゃんに関することなら、何でも可愛い、カッコイイって思うんだろーがよ。坊ちゃんの信者みてーなもんだからなぁ」
「な…っ、なんだよっ!! トラだって似たよーなもんだろっ!? 『坊ちゃん』『坊ちゃん』って、いっつも言ってるクセにっ!!」
「はああッ!? そりゃ全部おめーのことだろッ!? 毎日毎日『坊が』『坊が』ってうっせーじゃねえか!!」
どうやら、自分達が身を隠していることすら、忘れてしまっているらしい。
さっきまでのコソコソ声が、庭園中に響き渡るほどの大声に変わっている。
「トラなんて、坊に救ってもらった時、メチャクチャ感動してたじゃないかッ!! 『坊ちゃんに一生ついて行きます!』とかって土下座までして、ダラダラ涙流してさッ!!」
「それはおめーだって同じだろッ!? しかも、わんわん大声で泣きわめきやがって!! 女々しいったらなかったよなぁ、あん時のサギはよぉッ!?」
「何をぉおッ!? トラだって、坊が崖から落ちて大怪我した時、『俺のせいだ』『俺が誘拐なんざ引き受けなけりゃ』って、坊に取りすがって大泣きし――」
「いい加減にしろおまえ達ッ!! それ以上喋るなッ!!」
堪忍袋の緒が切れたのか、龍生が二人以上の大声で命じた。
瞬間、二人はビクッと体を揺らす。
「あ……。ぼ、坊……」
「い……いつから、そこに……?」
龍生を見上げる二人の顔には、『マズい』『殺られる』――という思いが、そっくりそのまま映し出されていた。




