第9話 咲耶、保健室での唐突な抱擁に全身を熱くする
保健室に着いた龍生と咲耶は、室内をぐるりと見回してみたが、養護教諭の姿はどこにも見受けられなかった。
朝っぱらから、ここを利用している生徒もいないようで、室内はもぬけの殻だ。
勝手に体温計を借りるというわけにも行かないだろうし、この先どうするつもりだろうと、咲耶はそうっと、龍生の様子を窺う。
龍生は、保健室に備え付けられているベッドに鞄を置き、くるりと振り返った。
緊張気味の咲耶の手を取り、自分の方へと引き寄せると、有無を言わせず抱き締める。
「な――っ? い、いきなり何をするっ! 離せっ!」
咲耶はたちまち顔を赤らめ、必死に龍生から逃れようとした。
しかし、こういうことは何度も経験しているから、咲耶も承知してはいるが、彼は意外とたくましいのだ。どんなに力を込めて押し戻そうとしても、ビクともしなかった。
「おいっ、離せってばっ! ここは学校だぞっ? ふざけるのもいい加減にしろっ!……おいこらっ! 熱を測りに来たんじゃなかったのかっ?」
龍生は咲耶の言葉にも全く動じず、『苦しい』と感じずにいられる一歩手前の、絶妙な力加減で抱き締め続ける。
いきなりこんなことをする龍生の意図が掴めず、咲耶は戸惑うのみだった。
だが、こうなってしまっては、もうどうすることも出来ないことも、今までの経験上からわかっている。
とりあえず、無駄な抵抗をすることはやめ、龍生が何か話し出すのを、大人しく待つことにした。
しばらくの間、黙って咲耶を抱き締めていた龍生は、ふいに大きなため息をつくと。
「ああ……ダメだ。君をこのまま離したくない。今日は一日中、こうしていようか」
滅茶苦茶な発言に、咲耶はギョッと目を見開く。
「ば…っ! バカ言うな!! そんなこと、出来るはずないだろう!?」
真っ赤になりながら咲耶が諭すと、龍生は拗ねたように、彼女の肩口に顔を埋めた。
「……冷たいな、咲耶は。同調してくれとまでは言わないが、そこまで強く否定することはないだろう? 俺と長い間離れていても、少しも寂しくないのか?」
……まるで子供だ。
普段から落ち着いている龍生でも、こんな風に我儘を言うこともあるのか。
意外に思う反面、妙に可愛らしくも思えて来てしまい、咲耶は小さく吹き出した。
「長い間って、また大袈裟なことを。会えなかったのは、土日の間だけじゃないか。たった二日のことを、『長い間』なんて言っていたら、これから大変だぞ? 土日なんて毎週あるし、二ヶ月ちょっと先には、夏休みだってあるんだからな」
龍生の腕の中で、咲耶はクスクス笑い続ける。
恋人のつれない反応も、いっこうに気にすることなく、龍生は真剣な口調でつぶやいた。
「そう。それが問題だ。たった二日会えないだけでも耐えられないというのに、毎週だと? おまけに、夏休みまで迫っているなんて……。無理だ。そんなに長い間会えないなんて。発狂してしまう」
「……へっ?」
またしても、とんでもなく大袈裟なことを言い出したぞと、咲耶は呆れて龍生を見上げた。
しかし、その顔はどこまでも真剣だ。ふざけている様子など、微塵も感じられない。
「……あ……秋、月……?」
恐る恐る呼び掛けた瞬間。
「そうか! 俺の家から学校に通えばいいのか! 母屋も離れも、部屋などいくらでも余っている!――咲耶。早速だが、母屋と離れではどちらがいい? 和式と洋式、どちらが好みだ? 俺の希望を言わせてもらうなら、俺の隣の部屋がいいと思うんだ。すぐに会いに行けるし、逢引きだってし放題だ。……うん、そうだ。それがいい。学校が終わったら、君のご両親に、同棲の許可をもらいに行こう!」
こちらの都合も気持ちもお構いなしで、勝手に話を進めて行く龍生に、咲耶は蒼くなった。
このままでは、本当に同棲させられかねない。
「ちょっ、ちょっと待て! 勝手に話を進めるな! どうして私が、おまえの家に居候しなければいけないんだ? いくら何でも無茶苦茶過ぎるぞ!?」
「無茶苦茶? 何が無茶苦茶なものか。どうせ将来は共に住むんだ。ほんの少し、時期が早まるだけだろう? 何の問題もない」
当たり前のことのように言い切られ、咲耶はポカンとした顔で龍生を見返した。
だが、すぐ我に返ると、
「しょっ、『将来は共に住む』だと!?……っど、どーゆーことだそれはっ!? 何故私が、おまえと一緒に住――」
「結婚するんだ、当然だろう? それとも、咲耶は別居婚を望んでいるのか?――ダメだ。それは断じて認められない。何故に別居婚を望むのか、俺にはまったく理解出来ない。どうしても別居婚がいいと言うのなら、俺を納得させられるだけの理由を述べてくれないことには――」
「――って、どーしてそーなるんだッ!? 結婚なんてまだ早いって、この前ちゃんと言っただろう!?」
凝りもせず、あれからずっと、そんなことを考えていたのだろうか?
さすがにこれには、咲耶も引いてしまいそうになった。
「だから、今すぐと言っているわけではない。まずは婚約ということで、同棲してみるのも悪くないだろうと、提案しているだけだ」
「提案!? 提案なのか、今のが!? 思いっきり決めつけてたじゃないか!!」
「決めつけてなどいない。母屋と離れ、和式と洋式、どちらがいいか訊いただろう?」
「あーもーっ、そーゆーことじゃなくてッ!! どーしてわかってくれないんだッ!?」
「わかってくれないって……。それは咲耶の方だろう? 人間、いつ何があるかわからないんだ。今日、事故や事件に巻き込まれて、死んでしまうかもしれないんだぞ? ならば、なるべく長い間、時間の許す限り共にいたいと望むのは、恋人として当然のことじゃないか。それを、どうしてわかってくれないんだ?」
肩に両手を置かれ、切なげな表情で訴えられてしまい、咲耶は返答に詰まってしまった。
大袈裟だとは思うが、『人間、いつ何があるかわからない』のも、『今日、事故や事件に巻き込まれて、死んでしまうかもしれない』のも、絶対にあり得ないとは言い切れない。
否定しようにも否定出来ないというのが、やっかいなところだった。
「だが、そんなことを言っていては――」
咲耶が反論しようと口を開いた時だった。
ガラリと戸が開き、養護教諭が缶コーヒーを片手に入って来た。
「あら、何してるのあなた達? 授業、始まっちゃうわよ?――それとも、具合でも悪いの? どこか怪我した?」
首をかしげつつ訊ねられたところで、二人の話はお預けとなった。
龍生は『いいえ。少し具合が悪かったのですが、もう大丈夫です』と言いつつ鞄をベッドから拾い上げると、咲耶の手を引いて廊下に出た。
咲耶の教室に向かうため、龍生は前に立って歩き出す。
「話はまた放課後にしよう。……昼食は、伊吹さんと一緒なんだろう?」
最後の部分だけ、感情の読みにくい棒読みだった。
それがよけいに、拗ねているような印象を与え、咲耶の胸をざわつかせる。
(し、仕方ないじゃないか。秋月と二人で昼食――なんてことになったら、周囲が騒がしくて堪らんだろうし……。私が秋月と弁当を食べることにしたら、桃花が一人になってしまう。そんなこと、出来るわけないだろう)
心で言い訳めいたことをつぶやくと、咲耶はらしくなく背中を丸め、龍生の後に従った。




