第2話 結太と咲耶、敵陣へと乗り込む
龍生の家が目に入ると、結太はすごくホッとして、一気に全身の力が抜けてしまった。
そのせいで自転車がうまく支えられず、グラついた瞬間、『うわぁッ!!』という言葉と共に、道路へと転がり落ち、したたかに体を打ち付けた。
「いっ!……てぇ~~~」
頭を少しと、肩を強打したことによる衝撃と痛みに、情けない声が漏れる。
痛みを堪えて上半身を起こすと、結太はある事に思い至り、ハッと周囲を見回した。
「悪いっ、転んじまった! ケガなかった――……か?」
てっきり、荷台の咲耶も、一緒に転がり落ちてしまったのだと思っていた。
……が、違ったらしい。当の本人はケロリとして、不機嫌そうに結太を見下ろしている。
「危ないだろうが! 同乗者が私でなかったら、共に転げ落ちていたぞ!?」
「……え……。あんた、転ばなかったのか……?」
咲耶は『当然だ』とでも言うように胸を張り、仁王立ちで言い放った。
「転ぶはずなかろう!! 私を誰だと思っている!? おまえみたいな薄のろい奴と一緒にするな!!」
これには結太もカチンと来て、何か言い返してやろうかと口を開いたが、今は、そんなことをしている場合ではない。
慌てて自転車を起こし、石造りの塀に寄り掛からせると、門へと駆け寄る。それから、『うるさい!』と文句を言われそうなほどに、表札下のインターホンを連打した。
「おいっ! いくら何でも押し過ぎだ! この家の者の気分を害したら、余計、桃花の身が危うくなるかもしれんだろうが!!」
咲耶が見兼ねて注意すると、結太は険しい顔で振り向いた。
「うるせーっ、少し黙ってろ!!……大丈夫だ。この家との付き合いは長い。じーさんに事情を話して味方につければ、何とかなるはずだ」
「……じーさん?」
妙に強気な結太の態度に、咲耶は怪訝そうに眉をひそめる。
龍生の知り合いなのだろうと思ってはいたが、個人とだけでなく、家とも繋がりがあるほどに、親密な間柄なのだろうか?
(『じーさんを味方につければ』?……ってまさか、じーさんとは、秋月家当主のことか? こいつ、当主を〝じーさん〟呼ばわり出来るほど、この家の者達全てに、信頼されているのか?)
ただの頼りない知人程度と思っていた結太のことを、咲耶が少々見直し始めた、その時だった。
『どちら様ですか?』
低いが、シビレるくらい魅惑的な、男性の声がした。
咲耶はそれが意外だったようで、
(上流階級の家では、家事手伝い――メイドなどが応対するのだろうと思っていたが、そういうわけでもないんだな。……しかし、当主の声にしては、若い印象を受けるが……)
などと考えていると、
「その声、マサさんだなっ? マサさん、オレだよ。結太だよっ。――なあ、モニター見てんならわかってんだろっ?」
『……はい。お久し振りです、結太さん。相変わらずお元気そうで、何よりです』
妙に律儀な挨拶が返って来たが、結太は苛立ったように、早口で先を続ける。
「挨拶はいらねーって! それより、今急いでんだっ! じーさん呼んで来てくんねーか? 頼むっ、大至急で!」
『……はぁ。ですが、あいにく旦那様は――』
『ああ、構わん赤城。坊主なら問題ない。入れてやれ』
秋月家の側近のような役割を担う赤城の背後に、誰か来たらしい。声は少し遠かったが、年配の男性の声がした。
赤城は『はい。承知しました』と、その年配らしき声の主に答え、結太に向かっては、『今、門を開けました。もう少々お待ちください』と返す。
数秒後、重厚な板扉が内側に開き始めたが、結太は完全に開き切る前に、素早く中へと入り込んだ。
それから咲耶を振り返り、
「おい、あんたも来るか? 来るんなら、じーさんに紹介してやってもいーけど?」
これまで受けて来た冷たい態度へのお返し――とでも思ったのか、得意げに訊ねる。
そんな結太を、咲耶はキッと睨み付け、
「行くに決まっているだろう!? 桃花が危ないかも知れんのに、こんなところで指をくわえていられるか!!……だが、おまえの紹介はいらん。自己紹介くらい己で出来る。捨て置け」
などと言い放ち、毅然とした態度で門をくぐって来た。
「……かっわいくねーの……」
結太はげんなりとつぶやいたが、これほどの大豪邸を前にしても、臆することなく、普段通りいられる咲耶に、感心もしていた。
(オレが初めてここに来た時は、まだガキだったせいもあるけど、周りの家とは明らかに違う雰囲気っつーか、異様なほどのだだっ広さが、妙に怖く思えたっけな。……で、そんな家で暮らしてる龍生が、すごく寂しそうに見えて……。ま、今考えれば、あれは錯覚だったんだよな。昔から龍生って、子供らしくねーってか、やたら冷静で、何考えてるのかわかんねーヤツだったし)
昔のことを思い出しながら、目の前ではあるが、数十メートルは先にある家に向かって、結太と咲耶は、足早に歩いていた。
すると、近くまで行く前に引き戸が開き、中から、六十代後半ほどと思われる男性が、ぬうっと姿を現した。
「おう、坊主。どうした、今日は何の用だ? しかも、べっぴんさんを連れおって……。まさか、恋人を紹介に来た、というのではないだろうな?」
結太のことを『坊主』と呼ぶこの男、名は秋月龍之助と言い、秋月家の現当主にして、龍生の祖父である。
頭はほぼ白に変わりつつあるが、龍生の祖父だけあって、端正な目鼻立ちをしている。しわはやや目立つが、シミなどはほとんど見受けられず、肌の色艶も良い。
若い頃は当然モテただろうが、今もモテモテであったとしても、誰も、さして驚きはしないだろうと思えるほど、魅力的な老人だった。
「ちっげーよ! 誰がこんな高圧的な女、恋人にするかよ! オレが今日ここに来たのは、龍生に確かめたいことがあったからだ! わかったら、さっさと龍生に会う許可くれよ! 頼むよ、じーさん!」
咲耶は『高圧的な女』と言われた瞬間、ギロリと結太を睨み付けたが、今はそんなことを気にしている場合ではないとグッと堪え、深呼吸して冷静さを取り戻した。
それから龍之助に向かい、体の前で両手を重ね、深々と頭を下げる。
「秋月くんのお祖父様とお見受けいたしました。私、保科咲耶と申します。秋月くんと同じクラスではありませんので、彼と親しくさせていただいているわけではないのですが、今、こちらのお宅に、私の友人がお邪魔しているはずなのです。どうか、彼女をここに呼んでいただけないでしょうか?」
これまでとは打って変わった、礼儀正しい咲耶にギョッとし、結太は僅かに体をのけぞらせた。
(なんだなんだ、この豹変ぶりは!? さっきまでの、傍若無人な態度はどこへやった!?)
唖然とする結太だったが、龍之助は咲耶の礼儀正しさに感心したのか、はたまた美人には弱いのか、たちまちに満面の笑みを浮かべた。
「おう、その娘のことなら知っておるぞ。つい先ほど、龍生が離れに連れて行ったらしい。私も様子が気になってな。ソワソワしておったところよ。……よし、詳しくその娘のことを聞かせろ。早う中に入れ」
龍之助は上機嫌で、二人を家へと招き入れた。