第1話 咲耶、デレた瞬間を母親に目撃される
咲耶が龍生に抱きついたまま、少しだけ顔を傾け、ドア付近へと視線を走らせると、ドアが数センチほど開いていた。
閉め忘れたのだろうかと思った瞬間。何者かがこちらをじっと窺っていることに気付いた咲耶は、『ヒ――ッ!』と短い悲鳴を上げた。
「ん?――どうした?」
不思議そうに訊ねる声で、己が今、どれほど恥ずかしい状況に置かれているかを、改めて認識する。
咲耶は『わああああッ!!』と大声を張り上げると、龍生を思い切り突き飛ばした。
「ぅわっ!……さ、咲耶?」
いきなり突き飛ばされた理由がわからず、龍生は怪訝顔で首をかしげる。
すると、
「ウフフッ。やーだ、見つかっちゃったぁ~」
突如、背後から声が聞こえ、龍生はギョッとして振り返った。
「あ…っ」
思わず、驚きの声が漏れる。
彼の視線の先には、ニマニマと意味ありげな笑みを浮かべ、両手で口元を隠している時子がいた。
「かっ――、かかかか母様ッ!! どっ、どどっ、どーしてっ!? なっ、ななななななんでっ!?――いっ、いいいいったいっ、いつからっ、そこに……っ!?」
真っ赤な顔で動揺しまくる咲耶に対し、時子は憎らしいくらい落ち着いていた。余裕の笑みを浮かべたまま、人差し指を顎に当て、考えるポーズなどをしてみせている。
「えーっとぉー……そ~ね~……。う~ん……。『だから私はおまえが嫌いだッ!!』……辺りから、かしらぁ~?」
「――って…………結構前からじゃないかぁああああーーーーーッ!!」
特に悪びれた様子もなく、しれっと言い放たれた時子の言葉に、咲耶はショックのあまり真っ蒼になった。誰かに両手で頭を掴まれ、前後左右に振り動かされているかのように、脳はグワングワンと揺れている。
……嗚呼、何ということだろう。
自分の告白シーンとも言えるものを、よりにもよって、母親に覗き見されてしまうなんて!
恥ずかし過ぎて、すぐには声も出せなかった。ただひたすらに、その場から逃げ出したくなっていた。
だが、ドアの前には時子がいる。この部屋から逃れるためには、まず、彼女にどいてもらわなくてはならない。
横をすり抜けるという手も、あるにはあるが、突破するのは難しいだろう。
咲耶は逃げ込むように龍生の背に隠れると、声を限りに叫んだ。
「わぁあああーーーっ、母様のバカァアアアーーーッ!! 娘の部屋を勝手に覗くなんて、何考えてるんだよぉおおおッ!? そーゆーことして、恥ずかしーとは思わないのかああああッ!?」
半べそ状態で龍生の背にしがみつき、顔だけひょっこり出して、咲耶は時子を睨み付ける。
時子は、少しも動揺することなく。
「あら。だってぇ~……。あなた達ったら、ドア開けっ放しで、二人の世界に浸ってるんだもの~。こっちの方が気を遣って、全開だったドアを、ちょっとだけ隙間残して閉めてあげたくらいなのよ? むしろ、感謝してほしいくらいだわ~」
腰に手を置き、何故か堂々と胸を張った。
「んな…っ! 『ちょっとだけ隙間残して』ってのが、そもそもおかしいんじゃないのか!? 本当に気を遣ってくれていたなら、全部閉めてから、そっと退場してるはずだ!!」
龍生を盾にし、咲耶は涙目で訴える。
時子は『フフフフフフッ』と、さも愉快そうに笑ってから、
「そうねぇ、そうしてあげようかとも思ったんだけどぉ~……やっぱり気になるじゃなーい? 恋人の前で愛娘がデレる瞬間なんて、そうそう見られるものじゃないしねー。ウフフフフフフフッ」
「な…っ! で、デレるって何だ!?――デレてないッ!! 断じてデレてなんかないぞッ!? いないいないッ!! いないったらいないったらいないったらいないったらっ、いないんだからなーーーーーッ!!」
咲耶はそう言い張りつつも、龍生の背中にピタリとしがみついている。
恥ずかしさが頂点に達してしまっているため、己が今、どういう状態であるのかも、認識出来ていないのかもしれない。
「もうっ。や~ねぇ、咲耶ったら。今更ごまかしたって無駄よ~? お母さん、咲耶がデレッデレになってるとこ、この目でしっかり見ちゃったんだからぁ~。『あなたがいない毎日は、もう想像出来ないっ』とか、『私はあなたのせいで、どうかしちゃったのっ』とか、デレデレなこと言ってたじゃな~い」
「いいいいいい言ってないッ!! そんなこと言ってもいないし言うワケもないッ!! テキトーなこと言わないでくれっ、母様のバカバカバカバカバカッ!!」
ものすごい早口で、咲耶は完全否定する。
時子は腰に手を置いたまま、僅かに首を傾けた。
「あらヤダ、この子ったら。まーだそんなこと言って。ホーント、往生際が悪いわねぇー。……でもね。咲耶が何言ったって、私がこの目で、ちゃーんと確認しちゃってるんですからねっ。隠したって無ー駄なーの。そこんとこ、ちゃーんとわかってるぅー?」
「知るかそんなことッ!!――とにかく、私は言ってないッ!! 言ってないしデレてもいないッ!! わかったらさっさと出てってくれッ!!」
無意識なのかどうか知らないが、咲耶は時子とやり合っている間も、ずっと龍生の背に抱きついている。
その状態で、どれだけ『デレていない』と言い張ろうが、全く説得力がないということが、わからないのだろうか?
時子は『やれやれ』などと思いながら、呆れ顔でため息をつくと。
「へーえ?……じゃあ、秋月くんへのキス。あれは、どう言い訳するつもり? デレてない相手に、簡単にキス出来ちゃうような子だったのかしら~、咲耶は?」
「――っ!」
咲耶の顔が、これ以上赤くなりようがない、というほどに赤く染まって行く。
それを言われてしまっては、もはやごまかしようがなかった。
「あっ、あれは……。あれはだって、その……。かっ、母様が……っ」
心では白旗を揚げつつも、咲耶はまだ、モゴモゴと言い訳しようとしている。
娘の言いたいことの察しがついている時子は、ニコリと笑ってうなずいた。
「ええ、そうね。お母さんが言ったのよね。『秋月くんにキスしてみなさい』って」
「……ええっ!?」
それまで、親子の様子を眺めているだけだった龍生が、珍しく動揺の声を上げた。
時子は龍生を見やり、再びうなずいてみせてから。
「私がね、咲耶に提案したの。秋月くんに対する気持ちが、どんなものか知りたかったら、キスしてみなさいって。女性にとって、キスは特別なものだから……キスしてみて、嫌な気持ちにならなかったら、それは好意がある証拠だって。きっと、恋に近い感情があるはずだ――って、そういうことをね、この前咲耶に話したのよ」
「……キス、してみて……嫌な気持ちにならなかったら……?」
龍生はハッとしたように目を見開くと、素早く後ろを振り返った。
咲耶は相変わらず、龍生の背にピタリと張り付いているので、表情は確認出来ない。
龍生は、あの時咲耶が漏らした台詞を思い返しながら、ためらいがちに訊ねた。
「咲耶。俺にキスした後、『やっぱり、嫌じゃなかった』と言っていただろう? それはつまり……俺のことが好き、だと……。そういうことだと思っていい……のか?」
咲耶は、頭から湯気が出るのではないかと心配になってしまうほど、瞬く間に、全身を赤く染め上げて行く。
そして答える替わりに、ギュウゥゥッと、更に強く龍生に抱きついた。
「咲耶……」
言葉などなくても、それで充分だった。
龍生は、腰に回された咲耶の両腕にそっと手を重ね、幸せそうに微笑んだ。




